セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

800年延暦噴火避難民の富士朝神官ら300余人の正体と、阿祖山太神宮の三分社化。

山宮神社~御室山『笈形焼』を望む。平安期に宗教対立・論争が起きた土地でもある。


2022,5,14

 

しばらくぅ〜(´(ェ)`)/。

連休中は、ちょっと遠方へ出かけまして、あんなとこやこんなところに熊出没してみました。面白いこともわかってきたので、近いうちにご紹介します。お楽しみに…。

今回は延暦噴火時、富士朝氏族の拡散状況をご紹介。相模国へ避難した300余人の正体に迫ってみた。富士朝と鎌倉の架け橋となっていた?鎌倉氏族古屋氏や梶原氏、武蔵大國魂神社と梶原御霊神社に共通する御霊大神。私の推定ご先祖さまを辿る上でも、重要な調査となる。

~目次~

梶原景時がピンチの源頼朝を見逃した理由、鎌倉氏族は隼總別皇子副司家系・古屋氏?。 - セキホツ熊の謎を追え!

延暦噴火からの展開。

 

当ブログで何度も説明してきたように、800年延暦噴火をきっかけとして、政治・宗教でも東国の大地殻変動がおこった。富士朝氏族が周辺地域へ拡散避難、その際阿祖山太神宮御神霊は避難のための御霊分けした。考えてみれば…この未曾有の天災が、富士山東西南北に浅間神社が登場してしまったスタートだったのかもしれない。

まず延暦噴火からの展開を振り返ってみよう。

 

①800年富士山における延暦噴火、平安京と伊勢神宮を視察?に訪れていた富士朝大宮司ら300余人が、足止めされて富士朝へ帰還できず。

②50代桓武天皇の命により、サルタヒコ子孫・坂上田村麿が彼ら300余人を保護・先導して、宮下家祖大山守皇子の関係地、相模国高座郡岡田原に避難させる。

③その頃、富士朝にいた太神宮副宮司家系、15代応神天皇隼總別皇子子孫、福地家の兄弟がそれぞれ避難開始。

④兄・福地元宮麿は古屋氏族の元を訪れ養子となり、古屋氏を称する。

弟・福地大宮麿は安曇族の和邇部豊麿の養子となり、富士氏を称する。

⑤300余人の避難場所、相模国早乙女郷岡田原(高座郡)に、阿祖山太神宮『里宮』として、相模一宮寒川神社が創建される。

⑥以降の太神宮副宮司家系は、『福地家』ではなく『古屋氏』名義で、子々孫々副宮司継承されているのが宮下文書では確認できる。

 

 

元宮麿が避難した神部山と山宮近く、『一宮浅間神社』(山梨県笛吹市一宮町)。

 

富士朝大宮司ら300余人は、一体何をしていたのか?。

そもそも、山城国は西国における富士朝信仰の一大拠点。ホツマツタヱ版比叡山は、富士山の『見立て』として往古から認識されており、西国人は気づかぬ間に富士朝神を崇敬してきた。

また宮下文書版・桓武天皇母方や坂上田村麿父方には、出雲族サルタヒコ子孫出雲宿彌の遺伝子を引いているハズだ。それを一般的には、坂上田村麿ら東漢氏族は、何故か渡来系氏族にされてしまっている。このように平安京遷都の背後には、富士朝客人勢力秦氏バックアップがあり、富士朝回帰の気運が僅かにあった。それを世間では、『早良親王の祟り』の側面だけをクローズアップさせて、真相から目をそらしている節がある。

 

50代桓武天皇は、西国一の富士朝信仰の土地『比叡山(日栄山)』と『山背国(平安以降は山城国)』において、富士山オオヤマツミの妃神・カモサワヒメ(別雷命)を平安京鎮護として、富士朝『火』『雷』信仰に積極的であったと見る。さらに後世、これを桓武子孫を自称する平将門が『火雷天神』を旗頭とし、古来からの富士朝圏独立構想の『四季島東西分治』を図ったわけだ。現在も比叡山四明岳には、『将門岩』なるスポットがある。

※次回後述するが、火雷天神を祀る大和国葛城笛吹『葛木坐火雷神社』とも縁がありそうだ。

 

ウガヤ朝51代〜欠史8代における富士朝参拝は、毎回毎回莫大な予算が計上されていた。これに10代崇神天皇が不要論を唱え、13代成務天皇以降の公式参拝は記録されておらず、その役割は完全に伊勢神宮へ移管されてしまった。これに富士朝+東国が猛反発して、景行年間ヤマトタケルの東征があったわけだが…。

さらに中世では、もはや仏教・貴族勢力の既得権益が蔓延っていた。いくら天皇といえども、彼らの反感を招いてまで富士朝参拝はできない。やむを得ず、富士朝神官らを招いてオオヤマクイやカモサワヒメを祭祀させていたのではなかろうか?と…。

※宮下文書研究者鈴木貞一氏によると、オオヤマツミとオオヤマクイは同神。東京都八王子市の『日吉八王子神社』では、『日吉大社』の八王子山から、何故かクニサツチを勧請したという興味深い伝承も残る。

▲寒川大神 =初代富士山統治者クニサツチ夫妻のこと。

▲寒川毘古命=その曾孫オオヤマツミのこと。

▲寒川毘女命=別雷命=三嶋神=カモサワヒメのこと。

※宮下文書には、相模一宮『寒川神社』にはクニサツチも遷座されている記載もあり。





阿祖谷三十六神戸と避難民300余人の重複性。

第10代崇神天皇6年勅命により、高天原の神々代表の末裔を中心とした富士山先住民系・阿族組織、という神職氏子集団が登場した。前記事では、初代神武天皇と書いてしまいましたが、徐福と10代崇神天皇時代の誤りです。訂正してお詫びします、ゴメンナサイm(_ _)m。

まず制度としては7代孝霊天皇時代に徐福とその子孫らが、高天原の神代伝承が喪失することを恐れて、この36神戸から口碑・口談・伝言・実記録・系譜を録取し『徐福伝』を作成している。これらを富士朝の伝統・職業を後世に継承する氏子組織と定義されていた。


~三十六神戸とは~

  • 祖佐男命(宮守司長の祖)
  • 大山祇命(副宮守司長の祖)
  • 太真祖命
  • 火照須命
  • 火須勢理命
  • 日子火火出見尊
  • 大国主命
  • 天太玉命
  • 天兒屋根命(2代目副宮守司長家)
  • 栄日子命
  • 天之火明命
  • 金山毘古命
  • 作田毘古命
  • 大物主命
  • 前玉命
  • 武甕槌命
  • 経津主命
  • 稚武王命
  • 建御名方命
  • 豊城入毘古命(神代の人物)
  • 稲武王命
  • 味耕託彦根命
  • 稲蒼魂命
  • 天香護山命
  • 五十猛命
  • 興玉命
  • 櫛明玉命(タマノオヤとは別神)
  • 阿祖毘古命
  • 醜男命
  • 塩土老翁命
  • 顕国玉命
  • 豊玉武毘古命
  • 石堀留目命
  • 手力男命
  • 高照毘女命
  • 下照毘女命
  • 天鈿女命

…各子孫、以上は『平宮守家(後記事にて紹介)』とよばれる神職の始祖。10代崇神時代の大宮司はスサノオ系子孫・副司はオオヤマツミ系子孫であった。宮下家や福地家が登場するのは、4世紀以降なので注意。

 

10代崇神天皇の代には、『三室の聖廟地』の各天社と定め、各神系の聖廟地を天社の地とし、阿祖谷三十六神戸に祭祀的意味を含ませたようだ(後述)。

12代景行天皇時代ヤマトタケル東征後、関東圏の阿族たちの影響力は縮小していたと思われるが、富士朝祭祀的には相当数残っていたとおもわれ、前述した富士朝300余人は宮下氏族以外『三十六神戸』と重複している。これが現在…何故か自称桓武平氏であるはずの鎌倉氏族古屋氏(権正氏)も含まれている。となると…、私の推定ご先祖さま鎌倉氏族は富士朝神職の家系だったのだろうか?。

残念ながら宮下文書には直接的記載がないので、情況証拠を集めるしかない。。。

現在の大明見三十六屋敷は、古宮古屋敷から北東本宮小室浅間神社周辺へ移動されたもの。




〜延暦噴火300余人のリスト〜

  • 26代大宮司宮下源太夫元秀と一族郎党百十一人(大山守皇子の第一王子源大夫明政 二十六代孫)。
  • 副司金子国太夫政明一族郎党二十四人(大山守皇子の第二王子田宿伯より二十六代孫)
  • 副司井出弾正亮明治一族郎党十五人(大山守皇子の第三王子畑志津治二十七代孫) 。
  • 宮守頭鈴木喜平太清定族郎党十三人(月夜見命七十二 代の孫阿祖彦王の二子、阿志長男二十八代孫)。
  • 宮守副頭天利小膳太明仲一族郎党十三人(火明命末裔、尾張国造建稲種命の弟田稲禰命の二十六代孫)。
  • 副宮守司皆川小仁多清泉一族郎党十四人(作田彦命=サルタヒコ後胤の作田彦命二十五代孫、同名なので注意)。
  • 宮守司惣元司本郷清太兵軍政一族郎党二十人(武甍槌命後胤で加志彦良二十七代孫)。
  •  宮守司副元司大住建太夫訪敬一族郎党十八人(建御名方命後胤で諏訪彦良命の二十五代孫)
  •  宮守司副元司生沢太玉夫仲秋一族郎党十二人(天太玉命後胤で安房田彦命二十五代孫)。
  • 惣社家取締頭平太夫道弘一族郎党十五人(道弘は前玉命後胤で 武徳彦男命二十四代孫)。
  • 惣社家副取締役杉崎太夫元春一族郎党十五人(稚武王命後胤で江奈良彦命二十五代孫) ※この稚武王命とはタケミナカタの兄?のこと。
  • 社家惣取扱役古屋半太夫春信一族郎党二十人(天兒屋根命の遠孫)
  • 社家副取扱役小菅右馬夫駒尾一族(代?巳貴命後胤で経津志良男命二十六代孫)。
  • 神事宮守頭北村豊城男佐家一族郎党十一人。 (豊城入彦命の後胤で津身佐男命二十五代孫)。※この豊城入彦命は、大物主第3子のこと。
  • 神子取扱役福岡萬七太徐教一族郎党二十八人(秦徐福七代嫡孫の秦福岡のさらに二十四代目の孫)。 

彼らは、岡田原に散在して定住し、翌年801年26代宮下源太夫元秀が死去した。

 

※上のリストからも副宮司家系・福地家が留守番をしていたのがわかる。

※神奈川県伊勢原市付近は大住郡があった。

※神奈川県中郡大磯町に生沢という地名あり?。

※神奈川県茅ヶ崎市には、平太夫新田という地名が残る。松下平太夫の開いた土地という。平太夫というのは『桓武平氏』とは無関係なんだな…(単なる名前だと今更気づいた)。となると…三浦義明が婿入りした三浦大佐『三浦平太夫為道』も、女系を含めて全く平氏ではない可能性あり???。

※古屋氏はアメノコヤネ子孫???、後記事にて触れる


福地・元宮麿が避難した比定地とは?。

その頃、富士朝の隼總別皇子末裔『福地家』の兄弟も、甲斐国各地へ避難を開始。おそらく御霊分けの目的もあり、兄弟は別方向へ避難したのだと思われる。

 

『甲斐国八代郡と山梨郡の間の中山に避けた。後にその地の豪族古屋彦九良の養子となり、古屋元太夫(正彦)を称した。』

『八代郡と山梨郡の間の中山の東山に宮殿を造営して先現太神を分ち移して祀った。この山を神部山と名付けた。即ち福地山北元宮神部山浅間神社がこれである。』現代訳203ページ

『表本宮より元宮まで十五里で北本宮より二十五里である。(直線距離ではない)』

『これより太神宮は、都留郡に鎮座するが、八代郡に支配されることになったので、後世、太神宮は八代郡に鎮座しているとするものが少なくない。三大実録、日本記略、延喜式並びに古文書などがそれである。』現代訳204ページ

『弟の大宮麿は、福地山西北の合の裾野にある福地郡上野御原に宮殿を造営して先現太神を分け移して祀った。その地を新山宮村と名付けた(市川浅間神社のことか?)』

※以上、宮下文書三輪本現代訳・神奈川徐福研究会『神皇紀』引用。

 

〜隼總別皇子子孫、福地家~

兄・元宮麿の避難地、養子先『古屋氏』。

  • 山宮神社(一宮の元宮で摂社。神山鎮座)
  • 後に、一宮浅間神社(山梨県笛吹市一宮町一宮)が追加創建される。

弟・大宮麿の避難地、養子先『富士氏』。

  • 一宮浅間神社(山梨県西八代郡市川三郷町)に避難。
  • 富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市宮町)に養子となる。

 

800年延暦噴火以降、富士山は噴火を断続的に百年以上も繰り返した。その結果郡境線は変更を余儀なくされ、周辺神社に大混乱を招いた。宮下文書研究者加茂喜三氏の言うように、延暦噴火を口実として、朝廷がドサクサにまぎれ、作為的に巨大な富士朝関係地を接収しようとした…との見方も出来るだろう。

これを解析するには、諸説ありすぎ…、おまけに論争もあるみたいだし…。本音をいえば素人オッサンでは手に負えないので、今までは言及を避けてきた(苦笑)。敢えて、宮下文書記述に関係していそうな神社を挙げれば…。

 

〜太神宮三分社・里宮〜

  • 富士山東本宮寒川神社(寒川神社)
  • 富士山北本宮神部山浅間神社(山宮神社?)
  • 富士山表本宮大宮浅間神社(浅間大社)

笛吹『一宮浅間神社』の元宮にして、境外摂社『山宮神社』(山梨県笛吹市一宮町)

誰もいない。。。熊しかいないような山中に、国の重要文化財がある事実。
春日造檜皮葺の本殿。熊しかいないのに。。。(画像加工なし)。



◯『笛吹・一宮浅間神社 (山梨県笛吹市一宮町)

〜御祭神~

  • 木花開耶姫命

wikipediaを要約すると。BC22年(垂仁8年)神山の麓で創建され、865年(貞観7年)旧暦12月9日に現在地の一宮町へ遷座したという。付近には甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡が残っている。また、元宮比定地には、境外摂社『山宮神社』が存在している。

 

◯『山宮神社』(飛び地:笛吹市一宮町一ノ宮)

〜御祭神〜

  • 大山祇神(コノハナサクヤの父)
  • 瓊瓊杵命(コノハナサクヤの夫)

笛吹『一宮浅間神社』の元宮にして、現在の境外摂社。現在『神山』鎮座とされるが、個人的には宮下文書における『神部山』に比定されるとみている。当初はコノハナサクヤヒメが祀られていたというが、笛吹『一宮浅間神社』へ遷座されている。当社の鎮座地は旧山梨郡であることなどから、疑問視もされている。

 

◯『市川・一宮浅間神社』(山梨県西八代郡市川三郷町)

 

〜御祭神〜

  • 木花咲耶姫命

〜合祀〜

  • 瓊瓊杵尊
  • 彦火火出見尊
  • 事解男命

 

宮下文書記載『福地山西北の合の裾野』というのは、この市川一宮なのではないだろうか?と…。もともと、この富士山西北側には大きな浅間神社は少ない。

wikipediaでは諸説あるが。平安期貞観時代の創建、富士山噴火を避けるために『御正体山』(山梨県都留市大野)に遷座したという。924年(延長2年)その里宮として当社が創建された。御正体山山頂の旧跡には、山宮として山祇社が存在する。だとすると…御正体山は富士朝太神宮や宮下文書から目を背けさせる、カムフラージュ的存在にも聞こえる…。

三代実録によれば、864年(貞観六年)5月、貞観噴火の折に、富士山を祀っていた駿河国浅間神社の神職の怠慢であるとして、北側にある甲斐国でも祭祀を始めたとのこと。翌年、天変地異が続いたために、勅命により伴直真貞を祝として、甲斐国八代郡に浅間明神の祠を建て官社とした。また、山梨郡にも、八代郡と同様に浅間明神を祀ったとある。

前述したように、宮下文書三輪本現代訳では、この三代実録記述は『ウソ』と断じている。因みに何度も書くが…宮下文書版『伴氏』とは、大伴氏族が衰退した直後、非常に奇妙なタイミングで『伴氏』を賜った富士朝神官・太田氏または羽田氏のこと。

 

ただ、宮下文書にも不審点がある。

『山宮』と称して、実質的には後日『里宮』と呼称している。つまり、『元宮』『里宮』『山宮』の定義がなんなのか…もうチンプンカンプンなのだ。これは災害時特有の飛び交うデマも、一因にあったのかもしれない。

実際、これには当時の八代郡と山梨郡の住民も大混乱していたようで、神部山浅間神社において、独自に甲斐国総国民大祭典を執り行うことで、山梨郡と八代郡の区別を図ったようだ(現代訳210ページ)。これが、現代笛吹市の『一宮浅間神社』創建の真相ではなかろうか?と…。

 

 

 

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