セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

サルタヒコ子孫さらに末裔の話。天野遠景と大宰府・大江広元と毛利長州。

 f:id:sekihotu:20210429113315j:plain

2021,4,29

前記事で書くのを忘れてしまいました。ゴールデンウイーク中は仕事や私用で、記事作成間隔がズレます。ごめんなさい。もともと記事間隔は決めているわけではないのですが...ご了承を。

 

サルタヒコ子孫、菅原道真のさらに末裔の話。

 

前記事より。

『伊勢』の本当の歴史、サルタヒコ子孫伊勢国造と坂上田村麿、菅原道真の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!

<まとめ>タマノオヤ日前宮祭祀をしていた武内宿彌は、サルタヒコの血筋であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

火雷天神の正体はオオヤマクイ?菅原道真?、富士朝伴氏と大宰府憤死の秘密。 - セキホツ熊の謎を追え!

宮下文書における菅原道真は、代々、富士朝の祭祀に携わる由緒正しきサルタヒコ神系出雲族の出自であったわけだ。それに加え、母方も富士朝『伴氏(太田氏と羽田氏)』の可能性もあり、さらに富士朝神系の血が濃くなる。

不遇の扱いを受けた人間なんてゴマンといる中で、西国天皇勢力がなんで彼だけを特別視していたのか?。それは、彼の背後に見え隠れする『出自』とみる方が自然だろう。彼は生まれながらにして、『天満大自在天神』『火雷天神』という神を背負っていたのだ。

菅原道真の子孫は、同祖の出雲族野見宿彌子孫・土師氏同様に、関東にも多く流れているとみる。東京都国立市、東日本最古の天満宮『谷保天満宮』や、菅原道真公の遺骨を祀ったとされる『大生郷天満』などは、彼の子孫が残した痕跡と言われる。




宮下文書版・菅原道真末裔の一つが、『天野氏』だ。

昌泰の変(901)、菅原道真が太宰府左遷させられると、嫡男・高視と嫡孫・文時は土佐に謹慎されていた。

しかし藤原純友の乱(940)が伊予で起こり、文時と子息・輔正が応戦、これにより菅原氏名誉挽回に成功する。輔正は飛騨国大掾となり、彼の弟が同国(飛騨国?)天野郡に移り住む。以降は、天野氏を称することになる。

さらに子孫・天野道文は、奥州前九年の役の功績により遠江守・秋葉山主となり、彼の息子が、菅原道真7代孫・天野遠江守景信となる。

この時点では、すでに秋葉山は開山されていたようだ。

 

※wikipedia菅原高視は、土佐介に左遷され、38歳で病死したことになっている。

※wikipedia菅原文時は、最終官位は式部大輔従三位。漢詩や和歌で活躍したようだ。

※16世紀、武田家臣に同姓同名『景信』なる人物がいるので注意。山梨県にも天野姓が多いが、富士朝関係の同族ではないか?。

 

f:id:sekihotu:20210429113525j:plain

『秋葉本宮・上社』(静岡県浜松市天竜区)

f:id:sekihotu:20210429113615j:plain

末社、右から外宮社・内宮社・祓戸社



◯『秋葉山本宮秋葉神社』(静岡県浜松市天竜区春野町領家)

〜御祭神〜

・火之迦具土大神(秋葉大権現)

 ~末社~

内宮社 天照大神

外宮社 豊受大神

祓戸社 祓戸神

水神社 水神

天神社 天津神または菅原道真

小國社 小國神

安座石社 磐座または山主神

風神社 風神

山姥社 機織井山姥神

白山社 白山神

山神社 山神

※和銅2年(709年)創建、701年、行基開山説あり、現在も神仏習合が強く残る霊山。秋葉(あきは)と読むが、東京都秋葉原は、紆余曲折あるが、ある意味...秋葉山に因む。それだけ関東圏にも『秋葉ブランド』の知名度はあった。

f:id:sekihotu:20210410164511p:plain

 

祭神は、火之迦具土大神祓戸神水神も祀られている点に注目。宮下文書による由緒はないが、富士朝『火』『水』のしくみを彷彿とさせる神社である。

秋葉大権現および秋葉寺の事実上の根源とされるが、秋葉山秋葉寺ホームページによると、秋葉神社と秋葉寺は無関係であるとしている。

三尺坊こと『秋葉三尺坊大権現』は、天狗の姿をした火伏せの神。実在の人物で、信濃の戸隠山の出身、越後蔵王権現で修行した僧との説もあり。

宮下文書によると、遠州=遠久見はオオクニヌシの本拠点、おそらくは家康がオオクニヌシを崇敬していた一因。秋葉山『三尺坊』は、遠州一宮・小国神社と同神、オオクニヌシが祀られているという説もある。つまり、秋葉権現と三尺坊は別の神霊として扱われている。

 

また秋葉山北部竜頭山には『八尺坊』があり、『三尺坊』との関係は不明ながら、明治初期までは不動尊を祀る秋葉寺『奥の院』とされていたようだ。ここには徳川家康と築山殿の嫡男、自害に追い込まれた松平信康の『愛信康』と彫られた石碑がある。

以降徳川幕府の寺領の寄進あり、『火防の神』として関東で広められたのも、幕府の影響力があったのかもしれない。秋葉山と徳川家については、次回記事で紹介したい。



前記事で述べたが、宮下文書で三浦義顕が敗走の折、天野景信が登場している。

平治の役(1160)の折。賀茂次郎義綱の孫・三浦義顕は源義朝に従い、近江まで敗走していた。彼らはしばらく近江国に潜伏していたが、尾張内海にて義朝殺害の報を聞き、下向を決意ようだ。義顕は三浦氏拠点相模国まで逃れたが、足柄山を封じ込まれ、菅沼村(静岡県小山市付近)近くで身を潜めていた。

ここで合流してきたのが、義朝同軍・天野遠江守景信大森駿河守頼茂(後述)ら。彼らは山に籠もり、周辺農村から穀物などの略奪行為を繰り返し、特にすることもなくボーッと時間を過ごしていたという。

このあたりの記述は、妙にリアリティーがある(苦笑)。

その数ヶ月後、1160年6月15日。富士阿祖山太神宮大宮司・宮下記太夫政仁らが、山開きの為にこの地に入麓。彼らに『義』を感じ、高天原に案内する。三浦義顕の子・源甚吾重政こと源九良を宮下家婿養子に迎い入れ、皆を宮伴に取り立てられた。


以降の天野氏は、残念ながら宮下文書で追うことはできない。ただ以降述べる天野遠景は、この天野遠江守景信の一族ではないかとみる。おそらくは天野氏は、藤原氏姓に仮冒されている。

f:id:sekihotu:20210429114300j:plain

秋葉本宮上社、残念ながらこの天気。しかし、天竜川河口までが見渡せた。

天野遠景による『太宰府凱旋』。

 wikipediaによると、天野氏の祖がいきなり天野遠景となる。

一般的に天野氏祖は、伊豆国の藤原南家工藤氏(伊東氏と同族)の藤原景光とされており、その息子が天野遠景。伊豆国田方郡天野にて、天野氏と称した事になっている。それ以前は遡ることはできず、事実上の系譜は抹消されているようだ。

上記の秋葉城も、この天野遠景以降の天野氏が、南北朝時代にズレ込んで、築城したことになっているので注意。この天野氏が築城した『秋葉城』の跡地に建てられたのが、『秋葉本宮・上社』となる。城の遺構は、現在残っていない。

 

文治元年(1185年)平氏追討での活躍し、鎌倉幕府により九州惣追捕使に補任、鎮西統治機関である『大宰府』の実権を握った。遠景は初代鎮西奉行人となり、その後も平家残存勢力を征伐するなどの活躍をしている。

つまり宮下文書版天野氏は、菅原道真公の子孫であるがゆえに、頼朝に『太宰府』を任されたという事実が浮き彫りとなるわけだ。これ...九州史にとっても重要なことのハズだが、多くの史家は気づいてない。

その後の天野遠景は、太宰府にて頼朝の命令を無視するようになり、単独行動が目立つようになる。彼は、十年後に奉行職を解任され鎌倉へ帰還、ただ現在も福岡県内において天野姓はかなり残っているようだ。

 

戦国時代は武田氏家臣となり、甲州征伐(1582)以降衰退、伊豆国・相模国・甲斐国で帰農、郷士した勢力もある。

また、平安時代からの秋葉山勢力が遠江国に残っていたようで、天野経顕の遠江国勢力が、元弘3年(1333年)の新田義貞と富士朝三浦義勝による鎌倉侵攻に参戦している。経顕一族も96代後醍醐天皇『建武政権』に属すが、一族同士が南北に別れて対立してしまう。

三河国に勢力を持っていた天野康景は、徳川家康の家臣として活躍している。やはり全国天野姓が一番残っているのは、この秋葉山のある遠州となる。



因みに宮下文書版大森氏も富士朝氏族だ。

前述した大森駿河守頼茂は、15代応神天皇大山守皇子38代孫で、宮下記太夫親明の曽孫。この親明は17歳にて早世するが一子あり、大森の館にて育てられたのが大森頼親。源頼義が烏帽子親となり元服し、鎌倉権正景任なる人物の娘・鶴司を娶った。この息子が大森駿河守頼茂となる。

ヤマトタケル由縁で雷神を祀り、平将門が再建した『二岡神社』(静岡県御殿場市)も初代大森親家の弟、親清の子孫の内海氏が宮司家となっていた(系図は不明)。雷神≒富士朝宮下家の強い神社であることが伺える。

これに反し一般的な大森氏は、藤原北家伊周流とする。室町時代には氏族内対立もあったが、太田道灌を支援し、小田原城を拠点として勢力を拡大していく。江戸時代以降も、江戸幕府における寄合旗本となった勢力がある。つまり、徳川による政権体制には、富士朝氏族がかなり入り込んでいるとみる。

また前記事にも書いたが、伊豆国狩野氏も富士朝氏族となり、同族の伊東氏も怪しくなる...。

 

このように宮下文書で比較することにより、伊豆を始め東国氏族の付会が、浮き彫りとなってくるわけだ。関東や伊豆は富士朝の影響力が強かった故に、歴史改竄も徹底されており、これら富士朝氏族によく見られるのが藤原氏・源氏・桓武平氏の仮冒であった。彼らが史上、忽然と姿を消した理由はここにある。

やはり仮冒というのは、下層氏族が成り上がりで自称したというよりは、富士朝のようなワケ有り氏族が、身分を誤魔化すためにしていたのであろう。

現代歴史家たちの再考察の必要性を、強く感じる。

桓武平氏に関東源氏が消されたワケに挑む、絡んでいたのはやはり富士朝?。 - セキホツ熊の謎を追え!

<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 



大江広元と長州毛利氏の謎。

同じサルタヒコ子孫の可能性がある氏族が、大江氏だ。

 

鎌倉初期に活躍した大江広元は、頼朝の側近にして、鎌倉幕府政所の初代別当であった。京都守護として太いコネクションをもち、幕府の政策にも影響力をもつ、まさに鎌倉幕府の頭脳であったとされる。

『成人してから、涙を流したことがない』という、意味深な逸話があり。

 

出自は諸説あり、文献により多種多様、当初中原氏を名乗っていたとの説もあり、また中原氏か大江氏のどちらかが養父だったとの説もある。その子は毛利季光、のちの戦国大名『毛利氏』の祖となる人物、即ち長州藩の母体である。

残念ながら宮下文書には記載がない。

 

しかしwikipedia大江氏によると、なんと大江氏とは、アメノホヒ子孫の出雲族土師氏『土師宿彌』、『大江朝臣』というのだ。つまり菅原氏『菅原朝臣』と同祖となる。

延暦9年(791年)桓武天皇の縁戚関係にあった土師諸上は、大枝の姓を賜る。大江氏出自は武士ではなく、地方の下級貴族、文人貴族を輩出する。

つまり...彼らも宮下文書版サルタヒコ子孫ではないのか?、という疑いがでてくる。

 

承久の乱(1221)、後鳥羽上皇側に付いた嫡男・大江親広は、出羽国寒河江荘に敗走し潜伏、子孫は寒河江氏と称した。そのさらに嫡男・大江佐房は鎌倉方につき、戦功により信濃国上田荘を賜り、上田氏となる。以降戦国時代まで、氏族が分裂してしまうことになる。現在この地域は、『月山』(山形県鶴岡市)の南東30キロにあたる。現在、『寒河江八幡宮』があるのだが、これがまた強い富士朝要素を感じてしまう。前記事でも紹介した『寒河』は、ここでも『寒川(寒川比古命=オオヤマツミ)』を準えているようにも思える。

 

◯『寒河江八幡宮』(山形県寒河江市八幡町)

〜主祭神〜

・誉田別命

〜配祀〜

・大山祇神

※県指定文化財 短刀『銘出羽寒河江月山』

室町時代の作。

前九年の役、源頼義・源義家親子創建。




和田合戦(1213)にて鎌倉幕府から敗走した和田氏だが、宮下文書には『和田氏』独自の記載があった。大山守皇子の御子・2代宮下源太夫明政で、不佐国(下総国)の県主、第5王子吉田五男摩古彦の末裔と記載がある。

下総国相馬郡(現在の千葉県我孫子市布佐)にあった布佐城は、『和田城』とも呼ばれる。一般的には三浦氏族ということになっており、私もそう判断していたのだが...。

なんと!、宮下文書版・三浦氏と和田氏は別系統らしい(笑)。どちらも富士朝宮下家との関係は深く、女系遺伝子的には重なる部分もあるか...。

※ここも、再考察が必要かもしれない。それだけ、素人オッサンの熟読が足りなかったという事でしょう、ごめんなさいm(__)m。

 

大江広元はこの和田合戦に絡んで、武蔵守も兼ねていた。東京多摩地域の史跡を調べていると、ちょいちょい名前が出てくる。

和田合戦に破れた、小野氏族横山氏横山庄には、鶴岡八幡宮古神体『梶原八幡神社』や、鎌倉権五郎景正の死亡伝承地であり、御霊神社も多数ある。建保二年(1214)横山義孝を鎮魂する目的で、八幡八雲神社境内『横山神社』(八王子市元横山町)が創建されたとされる。

f:id:sekihotu:20200118171141j:plain

法華堂跡・頼朝墓

大江広元の四男・毛利季光は、承久の乱(1221)で北条泰時につき、美濃国木曽川や、山城国宇治川・淀川の戦いで活躍。この功績によって、安芸国吉田荘の地頭職となる。

ただ毛利季光の妻は、三浦義村の娘であった。妻の願いもあり、宝治合戦(1247)では北条幕府方ではなく三浦氏族方についてしまっていた。それ故、三浦氏ともども頼朝の墓前で、集団自決に至ってしまう。

現在も『法華堂跡』(神奈川県鎌倉市西御門)では、源頼朝・三浦泰村・毛利季光の墓、後世に大江広元の墓建てられ、著名な鎌倉武士の墓所群ともなっている。中には島津忠久の墓もあり、後世の長州・薩摩にとっても重要なターニングポイントとなる。

結果、毛利氏はほぼ壊滅、幕府により相模国毛利荘も失った。その間、越後国にいた四男の毛利経光の家系だけが生き残り、安芸国吉田荘の存続は許された。後世戦国時代、この家系から毛利元就が登場しており、これがのちの毛利藩、長州藩原型となるわけだ。

 

出雲と『南朝』の捻じれ現象、背後にサルタヒコ子孫。

前記事で述べたとおり、宮下文書においてはサルタヒコ子孫=アメノホヒ子孫の可能性がでてきた。

もし仮に、サルタヒコ子孫=大江氏・毛利藩長州としたら、アメノホヒ子孫出雲族や出雲大社と同祖という繋がりがみえてくる。

ま、あくまで可能性だが。

 

状況証拠的にいえば、長州藩が明治維新直後、信州出雲の拠点の一つとおもわれる戸隠山を襲撃し、中国地方出雲にあった『杵築大社』を『出雲大社』と名称変更したわけだ。つまり江戸末期、長州は信州と丹波に冠されていた『出雲』という名称を収奪した。そのうえで、出雲の発祥という『超古代文明出雲』の過大評価を現代に広めた。

宮下文書でも、中国地方に出雲という地名はあり、『日御碕神社』『出雲一宮・熊野大社』『石見一宮・物部神社(蘇我系統ウマシマジ)』などが、古来からの中心的信仰ではなかったか...?。

そもそも中国地方には、信州出雲の出先機関のようなものがあり、出雲は複数あったようだ。ただしwikipedia出雲大神宮によると、江戸時代ころは『出雲』といえば、丹波一宮『出雲大神宮』(京都府亀山市)を指し示していた。

ここに出雲の捻じれ現象がみえてくる。

 

そして、『明治天皇南朝すり替え説』がある。

彼らが語る、長州による自称『南朝』。これは一体どこから出現してきたのか?。

ここに南朝の捻じれ現象がみえてくる。

前記事でも書いたが宮下文書によると、南北朝時代、南朝・宗良親王は富士朝に潜伏していた。それゆえ、宮下文書研究家の加茂喜三氏は南朝にも精通していた。そこで加茂氏と長州大室寅之祐関係者が、『南朝』をテーマに対談したらしいのだが、話が全く噛み合わなかったという...。

 『明治天皇すり替え説』や大室寅之祐は、このブログでは取り扱うつもりはない。ググれば一杯出てくるので、みなさんで調べてみてほしい。

まあ、世間的にみれば、富士朝を語る加茂喜三氏の方が、おかしな人間と思われているのであろうが...(私は尊敬している)

 

では、宮下文書視点ではどうなのか...。

むしろ逆に、江戸幕府徳川政権こそが、『富士朝』『南朝』の流れであった可能性がでてくるのだ。

このあたりを、次回記事で掘り下げていく。

f:id:sekihotu:20210429115110j:plain

秋葉本宮『山姥社』 機織井

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

 

www.sekihotu.com

※地図はクラフトマップ使用。

www.craftmap.box-i.net