2023,9,2
前記事の続き。
全国的に、摂社などの稲荷信仰としてウケモチを祀る神社は多い。この穀霊・農耕神信仰もオオトノジ・サルタヒコ子孫と関係があるのだろうか?。稲荷信仰の一側面として宮下文書から考察してみた。
因みに、通説オオトノジはオオトノヂですが、本ブログでは三輪本現代訳を踏襲させていただきます。
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~目次~
- 飯縄権現ウケモチは富士朝神?
- 伊勢国・保食神大國道命とは?、やはりオオトノジか?
- 伏見稲荷サタヒコと秦氏の関係
- 田+山の神、何故ミケツが皇祖神なのか?
- 狐と烏天狗、はじめは猿だった???
- ホツマ版天狗とシナトべ・タツタヒメの関係?
- おまけ
〈風のサルタヒコ①〉シナトベ=宮下文書版サルタヒコ説、出雲族『根の国』の根源か?。 - セキホツ熊の謎を追え!
ホツマ出雲史徹底解剖!、根国→サホコ国をすり替え、天皇はスサノオの罪を嘘で封じ込めようとした?。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈風のサルタヒコ③〉伊勢出雲レイラインに浮かぶ、野見宿彌殉死と菅原道真噴死の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!
〈風のサルタヒコ④〉飯縄権現・秋葉山・天狗・仁科神明宮のサルタヒコ子孫の繋がり。 - セキホツ熊の謎を追え!
飯縄権現ウケモチは富士朝神?
前記事のように、戸隠信仰が先か?飯縄権現が先か?という議論がある。
個人的には、戸隠信仰のスサノオと地主神九頭竜信仰のほうが、遥かに古いと思っていたのだが…。ただホツマツタヱにもヰツナミチ(猿のムハタレ)が登場しているので、飯縄権現もかなり古いという認識はもっていた…。注目すべきは、飯縄権現創始がスサノオ到来よりも古い神、オオトノジが御祭神であること。宮下文書には詳細がないのでなんとも言えないが、スサノオ登場以前からある地元信仰の可能性も考えられる。
ここでサルタヒコとスサノオの関係を整理してみよう。
宮下文書の富士高天原アマテラス岩戸事件では、兄オオクニヌシの指示により弟サルタヒコ一族が暗殺部隊と化して突破口を開き、多加王スサノオ勢力1300余を一気に殺害・捕縛してしまったキラー集団でもあった。オオトノジ2男・サルタヒコ一族は彼らを信州出雲へ配流させた張本人なわけで、スサノオ勢力からしてみれば天敵。つまり信州出雲において、オオクニヌシ・サルタヒコがスサノオ勢力に対して、監視の目を光らせてきたことが伺える。ここに飯縄権現と戸隠信仰の立ち位置が垣間見える。
後世に、オオトノジ・サルタヒコ子孫の野見宿彌や坂上田村麿が、この地を朝廷から賜ったのも、この特殊な役割があってのことではなかろうか?…と。彼らはこの飯縄権現を再興して、中国地方出雲へとスサノオ信仰を封じ込める役割もあったのではないか…と。それが現代、出雲族とか、出雲臣とか、彼らの出自を曖昧にされている根本なのかもしれない…(妄想)。
飯縄権現の創始は、飯縄山にオオトノジ(大戸道命)が祀られており、現状の飯縄神社里宮(皇足穂命神社)御祭神にはウケモチ(保食命)が祀られた。宮下文書版オオトノジとホツマ版ウケモチは、ともにクニサツチの息子という点で共通しており、ここからオオトノジ≒ウケモチという推論がでてくるわけだ。宮下文書版オオトノジは、富士朝下で洲々の農作を掌握し、その子孫38神を四方に遣わして農頭させた。次男サルタヒコがこの職を継いで、農務首頭または惣農神の頭を称した。とりわけ宮下文書には、オオトノジと信州との繋がりの記載はない。ただ以降のサルタヒコ子孫が全国を東奔西走して、農事に大活躍したのは間違いないようだ。
以前より本ブログでは、ウケモチ=富士朝神ではないか?と推測してきた。そしてサルタヒコ以降67代舟田彦命まで富士朝阿祖山太神宮の供物司長を代々継承しているわけで、おおまかには間違いないかと…。
宮下文書に限らず神系譜に見られる特徴は、先代に似せた名が間々みられる点。宮下文書版オオトノジの本名は農実比古(ノウミヒコ)命、垂仁天皇時代の子孫で、北越や出雲の農事を司った舟田彦命の弟・野見(ノミ)宿彌と酷似している点か…?。因みに岩間本では農実比古命をノウサネヒコと読んでいるので注意。
◯『山神宮』(山梨県笛吹市春日居町鎮目)。
〜御祭神〜
- 大山祗神
〜配祀?養蚕合祀?〜
- 月読尊
- 稚産霊命
- 宇気母智命
※創建不詳。
以前ご紹介した、山梨県笛吹市の大蔵経寺山中腹にある『山神宮』奥宮… 。オオヤマツミ・ツクヨミ・ワクムスビとともにウケモチが祀られており、神紋が羽団扇で『天狗神社』『天狗さん』と呼ばれた。無名の天狗の面が一つ奉納されており、里宮拝殿正面頭上には烏と鶴を描いた絵馬が掛けられている。
奥宮と里宮で共通かは不明。奥宮は富士山ではなく、オオヤマツミ生誕比定地の静岡県富士宮市宮町『富士山本宮浅間大社』付近を向いているようにも思える。
因みに烏・鶴・亀とは…。富士朝初代統治者クニサツチが愛した神獣。神武東征時の八咫烏の神勅も、ある意味富士朝の勅使・眷属と捉える事ができそうだ。
伊勢国・保食神大國道命とは?、やはりオオトノジか?
サルタヒコ子孫のもう一つの拠点・伊勢国のウケモチ。
前記事のように、宮下文書版サルタヒコ子孫3部族が全国に拡散した。その一角が伊勢国造家(倭田氏・山田氏・松木氏・度会神主氏?)となり伊勢国の祭祀を形成していった。だとしたら…、伊勢国にだってオオトノジの痕跡があって然るべきではないか?。ちょっと調べてみた…。
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まず前記事のおさらいを。
宮下文書における垂仁時代に、サルタヒコ子孫舟田彦命が、倭姫命の伊勢神宮創建をサポートするために伊勢入りした。のちに倭田氏→山田氏→松木氏を称し伊勢国造家となり、後世の伊勢外宮の度会神主氏とも関係がありそうだ。これが伊勢国内にてサルタヒコ信仰が拡大した直接的原因とみている。伊勢一宮『椿大神社』『都波岐神社』然り、内宮の北『猿田彦神社』然り。
さらに三重県鈴鹿市稲生西には『伊奈冨(いのう)神社』がある。
10代崇神天皇時代創建の伊勢国の古社。雄略天皇治天5年に『稲生神社大国道命』の神号を賜る。平安時代865年(貞観7年)の時点では従四位下で、正五位下の伊勢一宮・椿大神社よりも社格が上であったことになる。ここでは御祭神の現表記が、保食神大國道命となっている点にも注目。境内由緒書によると豊受大神や稲荷大神ら御饌津(みけつ)神と同神と解釈されている。
◯『伊奈冨神社』(三重県鈴鹿市稲生西)
〜御祭神〜
- 保食神大國道命(大宮)
〜合祀〜
- 豊宇賀能賣命(西宮)
- 稚産靈神(西宮)
- 鳴雷光神(三大神之宮)
- 大山祇命(合祀?)
※ほか明治期の合祀
これはもう十中八九…、ウケモチ≒オオトノジであろう(苦笑)。
宮下文書版オオトノジはサルタヒコ・オオクニヌシの父神である。ウケモチというのも『農作と食の受け持ち』の根本的意味を感じさせる。神名を伏せて富士朝の役職名としたのではないかと。
大國道命には、オオトノジ+オオクニヌシの家族神の重ね合わせを感じる。サルタヒコから見ればオオトノジは父神、オオクニヌシは兄神。神武天皇東征で、伊勢度会から東国への援軍要請に際して、真っ先に呼応したのが遠久見国オオクニヌシ勢力であった。
伊勢神宮創始前の伊勢国の地主神・武彌雄毘女命=大国御魂毘女命は妹神にあたる(スクナビコナ妃で、現在の度会大国玉比賣神社の御祭神?)。またタカテルヒメ→カモサワヒメ→コノハナサクヤを経由して皇家に女系遺伝子が入っている。
つまり伊勢国造家がオオトノジを祀るということは、伊勢国史の統括的な意味合いが強い。これも祖霊信仰『神道』の観点からも見れば当たり前、サルタヒコ子孫のルーツとアイデンティティそのものだった。
〜宮下文書版大戸之道(オオトノジ)の御子〜
- オオクニヌシ(富士朝初代大宮司)
- サルタヒコ (富士朝供物司長)
- タカテルヒメ(カモサワヒメ母コノハナサクヤ祖母)
- 武彌雄毘女命(尾張国スクナビコナ妃・度会大国玉比賣神社・伊勢地主神?)
※通説の表記は、大戸之道、意富斗之地神。武彌雄毘女命は読み方不明。
※※因みに宮下文書版オオクニヌシ勢力の本貫地と思われる、静岡県周智郡森町一宮『小國神社』。境内社の飯王子社にはウケモチが祀られており、深読みすればオオクニヌシの父神としての位置づけなのかもしれない。
しかし2世紀頃以降は、ホツマツタヱ成立以降に神々の系譜が大改竄され、知られてはならない、祀らねばならないというジレンマに陥った。歴史は一度改竄してしまうと、誰かの既得権益が発生してしまう為、旧データは即刻焼却され、もう中央政府でも戻せなくなるのだ。それでも伊勢国の彼らはなんとかして始祖オオトノジの名前を残したくて、保食神大國道命という名を残したのではないだろうか?と…。ゆえに食のウケモチという新しい神を創造させたのではないかと思われる。中身はおそらく富士朝古来からの『食』『農作』信仰ではないかと…。
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伏見稲荷サタヒコと秦氏の関係
前記事のとおりサルタヒコ本名は作田毘古命、本人が猿に似ているため猿田彦命というニックネームがついた。熊オッサンは、三輪本現代訳p57の送り仮名通り『サクタヒコ』と読んでいた…。最近ふと気づいたのだが、これ…もしかして『サタヒコ』と読むんじゃないのかな?と…。
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◯『伏見稲荷大社』(京都府京都市伏見区深草藪之内町)
~御祭神~
- 宇迦之御魂大神(中央座)
- 佐田彦大神(中社北座)=サルタヒコと解釈される
- 大宮能売大神(上社南座)=アメノウズメと解釈される
- 田中大神(下社摂社)
- 四大神( 中社摂社)
もしサタヒコであれば、その影響はデカイ。
稲荷信仰・御饌津神の本宮的役割をもつ伏見稲荷大社には『佐田彦(サタヒコ)大神』が祀られている。伏見稲荷が農作神の性質を持つのであれば、富士朝客人勢力秦氏がサルタヒコを祀っていても何らおかしくはない。さらには宮下文書記載の本名に近い形で祀られていたことになるわけだ。
伏見稲荷に関与してきた秦氏は、もともと富士山に信仰心をもって渡来してきており富士朝客人勢力。宮下文書を漢文に改め、さらに高天原の口伝を編纂したために、富士朝知識はズバ抜けて高い。11代垂仁天皇はその秦氏やサルタヒコ子孫の知識を応用して、伊勢神宮創建など富士朝に変わる新しい神道を全国に広める模索していた。秦氏族は協力の見返りとして定住地を賜り全国へ進出しており、その分布状況が何故か、アメノヒボコ子孫三宅氏と重複しているという。
例えば、以前から指摘しているように、宮下文書における三宅島は、平安期に富士朝大宮司家の宮下家が絡んでおり、『宮下(みやけ)島』と記載されている。すなわち全国屯倉(みやけ)の土地に、アメノヒボコと富士朝客人勢力秦氏の拠点分布が重複していることを考えれば…。屯倉とは、これもやはり富士朝の農作・食の信仰が絡んでいたのではないか?と…。
深読みすれば、ミケツや食に関することは死活問題に直結する故、その確実性を富士朝信仰に依存している。新しい神に変えようがないのである。
◯出雲二宮『佐太神社』(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)
〜御祭神〜
- 正殿・佐太御子大神=サルタヒコと解釈される
- 北殿・天照大神
- 南殿・素盞嗚尊
またサルタヒコを祀る出雲ニ宮『佐太(サダ)神社』・佐太御子大神にも関係ありそうだ。江戸後期19世紀の平田篤胤が、サタヒコを猿田彦神と同一視しており、『太』は富士朝太神宮に由来している可能性あり。そもそも中国地方出雲にも、出雲一宮熊野大社〜大山(伯耆富士)〜富士山レイラインなど、富士朝信仰が感じられる地域であった。その後の明治維新の折に、神祇官側から祭神を猿田彦命と明示せよと謎の圧力がかけられた説もある。
また伊勢戸隠レイライン上の猿投山・赤猿明神岩が古代祭祀場という説がある、三河三宮『猿投猿投(サナゲ)神社』。猿をサと読んでおり、wikipediaによるとかつての御祭神はサルタヒコであったという説あり。サルタヒコ子孫たちが関与していた可能性もありそうだ。現在の御祭神は、大碓命と12代景行天皇と11代垂仁天皇。奇しくもやはりホツマツタヱ成立と関係がありそうな面々だ。
田+山の神、何故ミケツが皇祖神なのか?
ここで...、飯縄権現と稲荷信仰は狐という縁で結ばれるわけだ。ではそもそも眷属とは何なのか?。
世間的には、神道の原点はアニミズムが先とも言われており、この五穀豊穣恵みの観点が稲荷信仰へと発展したと解釈されている。民俗学者・柳田國男曰く、これら稲荷信仰には『山の神』と『田の神』が密接に連動しているという。春に山の神が里へ降臨し、田の神となって稲の育成を見守る。秋の米の収穫後は、山(御神体)に戻る。
これが野生のキツネの行動パターンとシンクロしており、農事開始の春に人里へ降りてきて、秋には冬眠のために再び山へ帰ってゆく。いつの頃からか神の使いである眷属・眷属神と解釈された。
〜ウカノミタマ(宇迦之御魂神・倉稲魂命)〜
- 日本書紀…イザナギ・イザナミの子
- 古事記…スサノオの子(出雲神)、大年神の弟
宮下文書には登場しない。ただし…宮下文書現代訳p132神武天皇項に『大物忌命を出羽島の国造とした。稲蒼魂命五十三世の孫である。』という記載あり。どう見ても、彼が農作信仰として祀られる理由がないことから、実在上の人物の名前だけを拝借されているとみている。こういうオリジナルの神名を、別神で誤魔化す盗用パターンが、宮下文書では間々確認されるのは興味深い。中身は不明だが、おそらく古来からの富士朝神か?。
※因みに通説タマノオヤの別名、天明玉命、櫛明玉命も宮下文書上の別人物名。
そう言われて見れば、信州出雲・飯縄山の山頂に農作神オオトノジが祀られていたのか頷ける…。前記事の二つ目の飯縄山こと、長野県上水内郡小川村稲丘『稲丘神社』も、サルタヒコ子孫坂上田村麿同族が飯縄山山頂にウカノミタマを祀っていたので、飯縄権現本山を踏襲していた可能性あり。宮下文書における山の神とは火神であり、祖霊信仰そのもの。根源は全国の山岳信仰を統べたオオヤマツミ系統の子孫であり、富士朝信仰なくしては語れない御神域となる。その富士朝農作の受け持ち神が、オオトノジなのだ。
つまり田の神・山の神という説。
その根源は、四季島統治時代の富士朝と対をなす存在・豊受大神にあったと見ている。宮下文書版豊受大神とは富士朝クニサツチの兄夫婦、クニトコタチ夫妻のこと。彼らが拠点としていたのが田場(丹波)で、稲場(因幡)とともに日本屈指の米処であった様子が伺える。その田場山(出雲大神宮御蔭山か?)に祀られたのが山岳信仰でもあり、皇祖神クニトコタチ夫妻が稲荷神・御饌津神として解釈される理由の一つだろう。
では、御饌津(ミケツ)とは何なのだろうか?。
稲荷大神=御饌津神を三狐神(みけつがみ)と表記したことから混同されたともいわれている。熊オッサン的には、ニニギが制定した政治中枢で、かつ阿族の祖先を祀る『家基都(カキツ)』が転用されたのではないか?とみている。
神道の基本はあくまで祖霊信仰であり稲荷信仰も例外ではない。前述のように食糧問題は、いつの時代も大自然に依存しており、死活問題に直結する国の重要方針であることは明らか。阿祖山太神宮のさらに根源に近い皇祖神を祀るのは理にかなっている。そして富士朝祭祀のエキスパートであり、農作・供物を司る神官家系サルタヒコ子孫は各地で引っ張りだこであった。これが時として圧倒的存在感をもつ家系となり、野見宿彌・坂上田村麿・菅原道真のような著名人を度々輩出した。
富士朝客人勢力であった秦氏が、稲荷信仰に利用されていた理由も頷ける。食は政治の基本、成果主義であり、不作は直接的に政治不信を招く。土地神とは古来からの富士朝祖霊神であり、その信仰を辞めるわけには行かなかったのだ。そこで神道に、アニミズムや眷属が付随することになり、神仏習合の流れになってゆく。おそらくは、富士朝から日本人の目を逸らすために始まったこと。
ここで飯縄権現のシンボルを振り返ってみよう。シンボルは仏像図彙などに描かれた白狐に乗り剣と索を持つ烏天狗で、五体や白狐には蛇が巻きつくという。
前述の烏は、富士朝初代統治者クニサツチが愛した神獣であり、山から降りてくる狐に乗っかっている山神を重ねているのかもしれない。源流は同じ富士朝の五穀豊穣神・農作神、さらには皇祖信仰ではないかとみている。そして山の神=富士朝という正体を知られないためには、眷属・神の使者という間接的な表現が必要であった。
ただ飯縄権現も稲荷信仰も、皇祖信仰など数多くの習合があった感は否めず、一概には言えないので注意。
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※宮下文書における豊受大神とは、丹波出雲の出雲大神ミホツヒメが出雲大神宮付近にて祭祀した皇祖神クニトコタチ夫妻のこと(後述)。間接的に信州出雲オオトノジと、『出雲』が共通ワードになっているのは興味深い。
狐と烏天狗、はじめは猿だった???
稲荷信仰と飯縄権現に多大な影響を与えたのが、ホツマツタヱ。ここでは前述の眷属神と思われる存在が、実験的に描かれている点にも注目する。
ホツマツタヱ8文曰く、ムハタレとはアマテラス勢力とは全く違う価値観で動く者たち。心根が捻じ曲っているために、調和を捨てて動物霊に支配された妖術をつかう人々で、神代のアマテラス政府へ反抗してきた。これに対してイサワ宮のアマテラス大御神(当時の西国天皇勢力側)は、禊祓で応戦したとのこと。
ここではホツマツタヱ成立時代までに、西国天皇勢力に刃向かった、実在の地方勢力をモデルにしているのだろう。アマテル勢力=当時12代景行天皇時代に擬えて、天皇勢力はいつも被害者であり、災いの元凶として批判的に描いているのが印象的…。
〜ホツマツタヱ版ムハタレの種類〜
- シムミチ(錦蛇)
- ハルナハハミチ(鵺=ヌエ)
- イソラミチ(蛟=ミヅチ)
- キクミチ(狐)
- ヰツナミチ(猿)
- アメヱノミチ(天狗)
ヰツナミチ(飯綱)は、伊予から紀伊国に渡り高野山で蜂起するが、フツヌシらに蕨縄に掛けられて捕縛された。ヰツナ一族の正体は顔は犬に似た猿で、祖先が猿と交配してこのような姿になったという。のちに、猿更沢で霊還しの術により人に更生される。
猿といえばあのお方しかいないだろう…(´(ェ)`)
あとあと猿ではマズイと思ったのか?、猿を自粛したのか?。何故か狐や烏に変わった…???。実際、これが飯綱山と宮下文書版サルタヒコ子孫の密接な関係にも見えてくるから不思議だ(苦笑)。通説の飯綱権現は、天狗や狐などを召喚し使役する外法とされる。ただ、上記のように飯綱権現を猿として表現しているのは、後にも先にもホツマツタヱだけであろう。
※前述した飯綱権現と真言宗智山派『高尾山薬王院』には、空海を本尊とする修行大師堂や大師堂がある。飯綱権現と高野山はどう関係あるのか?。飯縄権現は伊予付近や高野山付近の信仰と習合した可能性もあるのだろうか…???。
前記事でもご紹介したように宮下文書によると、高野山は伊豆神八王子タマノオヤが一時的に拠点としていた可能性あり。もし高野山と飯縄権現が関係あるのだとしたら、伊豆那(いずな)の意味も見えてきそうな気がするが…(調査中)。
ホツマ版天狗とシナトべ・タツタヒメの関係?
同じホツマツタヱ8文脈にて、アメヱノミチ(天狗)を山の神イフキドヌシが退治する様は興味深い。風神シナトベと水神タツタヒメを召喚している。つまり…天狗に対抗するために、龍田大社のシナトベとタツタヒメのポジションがみえてくるわけだ。これはもしかしたら…、サルタヒコ信仰の代理神?、または信仰そのものを、風神で封じ込めるポジションだったのかもしれない。
〜ホツマツタヱ八将神〜
- ウツロヰ(空・雷?)
- シナトベ(風)
- カグツチ(火)
- ミヅハメ(水)
- ハニヤス(土)
- オオトシ(豊穣)
- スヘヤマズミ(山・水)
- タツタメ(鎮火)
◯『蛟蝄神社』(北相馬郡利根町立木)
〜御祭神〜
- 罔象女大神(水)
〜相殿神〜
- 埴山姫大神(土)
- 句句廻馳大神(木)
- 軻遇突知大神(火)
- 金山彦大神(金属)
- 倉稲魂大神
- 素戔嗚尊
- 菅原道真公
- 誉田別大神
◯『布川神社』(茨城県北相馬郡利根町布川)
〜御祭神〜
- 久久能智之命(木)
〜配祀神〜
- 水波能女命(水)
- 久那斗神(風?)
- 市杵島姫命
※これはホツマ版八将神をイメージした祭祀なのか?。
ホツマ版イフキドヌシは西洋の魔道士のような描写で、ムハタレを退治するときに八将神を召喚して戦う。そのさまは神道の神話としてはあまりにも斬新すぎた。このイフキドヌシは山の神とも言われており、使い魔=眷属神とも解釈できそうだ。ともかく富士朝祖霊信仰を曖昧にするために、実験的にアニミズムに転化しようとする試みが見られる。
シナトベとタツタヒメというのは宮下文書には登場せず。西国価値観にされ西国天皇勢力に仕える、天狗や東国価値観退治の神々なのかもしれない。ここで思い出していただきたいのが、眷属の本来の意味が親しい従者、妻子、従僕。つまり眷属とは、西国天皇勢力に仕える富士朝関係氏族の可能性もあるのではないかと…。宮下文書岩間本においては『諸眷属』の記載があり、これが宗教的に転用された可能性もありそうだ。
眷属とは、暗に…、その信仰をしている側の部族のことでもあり、修験道の修行を極め千日太夫と呼ばれた飯縄明神に仕えるもののこと。つまりこれって、遠回しにサルタヒコ子孫そのものかもしれない…。
やはり、天狗≒サルタヒコ子孫???
ホツマツタヱにおける、シナト・シナトベについてはまた別記事にて…。
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おまけ
前記事どおり。前記事を書いている段階で、突然東京都八王子市『高尾山薬王院』に行きたくなった。一人でフラフラと出かけて、ヘトヘトになって帰ってきたわけだが。
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結果として、ベストなタイミングで天狗様とお狐様からインスピレーションを得たと思う(苦笑)。というのも薬王院境内に天狗社があり、そのすぐ隣が稲荷社であった。たまたまなのかもしれないが...、この二つ根源的に近そうだなと..。色々知らべるきっかけとなった。
『育てていただいてありがとうございます。』
『富士山と信州出雲の歴史を伝えられるよう頑張ります。』
幼少のころからお世話になっているものの、かれこれ10年くらい参拝していなかった。各地を色々巡ってきたオッサンになってから気づいたのは、高尾山の植物の品種は他山に比べて異常なほど豊富だった事。。。麓にスサノオを祀る氷川神社があるのもご縁を感じる。
次回。。。もしかしたら三週間お休みを頂くかもしれません。
またご報告いたします、お楽しみに。(´(ェ)`)
※地図はクラフトマップ使用。