セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<富士朝めぐり③>富士朝埋葬法と水神、祓戸四柱の水の流れとは政治的水葬だったのか?。

 

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807年創建、山梨県南都留郡忍野村にある『忍野八海浅間神社』


2021,10,16

本ブログは宮下文書ベースで考察しており、一般論とかなり違いますので、ご注意ください。

前記事までは、瀬織津姫が火山や御祖霊を鎮魂しているのではないかというお話した。水神たちが火山を導き…、また失史を導き鎮魂する…と。

今回はそれと関係がありそうな…、富士朝の『埋葬法』について記事にしたい。

~目次~

 

<富士朝めぐり①>先現と徐福、新旧二つの富士朝。八幡神をすり替えたのは徐福富士朝だった?。 - セキホツ熊の謎を追え!

<富士朝めぐり②>西国天皇勢力に奪われた太陽神、そもそも富士高天原は『火』と『水』の楽園だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

宗像三女と祓戸四柱と伊豆権現、田村麿による富士延暦噴火鎮魂の大水神レイライン現る。 - セキホツ熊の謎を追え!




神皇は水葬されていた?。

宮下文書によると、神代の海外(詳細不明)からやってきたクニサツチ勢力は、先遣隊の兄クニトコタチを捜索していた。その間は父タカミムスビと共に、3004日≒8年程、愛鷹山の麓、住留賀野(駿河)を拠点としていた。

神代、現在の静岡県三島や沼津付近は、出張島と伊須浜の間に内海が深く入り組んだ『入江海』地形で、『葦』の群生地。宮下文書研究家の加茂喜三氏曰く、『豊葦原(とよあしはら)』とはこのことだと言う。この葦を利用した小型の『枯野舟(軽野舟)』は、枯野でも軽く漕ぐことができる意味で、カヌーの語源とも呼ばれる。後世BC241年、7代孝霊天皇の富士高天原阿祖山太神宮への参拝時に、伊豆地方に大地震が起こり、この入り江は陸地となったという。

※注目すべきは、彼らは渡航前に『蓬莱山』の情報を事前に得ていたこと。これは海洋民族との交流がなければ不可能であろうし、後世に大漂流した秦氏との面白い共通点となる。さらには、部族が集団渡航するまでの技術をもっていた。彼らの航海技術の高さを垣間見ることができる。

※因みに後述するツクヨミ妃・月櫻田毘女は、クニサツチ長男で、東洲を治めていたウイジニ(泥土煮命)の一女として生まれる。諡は『葦津毘女』、水や葦に馴みがあったのかもしれない。九州では瀬織津姫命も、海神的な要素で祀られることもある。

 

その後クニサツチ勢力は、富士山の北〜東麓に湖群を見つけ、その美しさに惹かれて富士朝高天原へ移住している。海洋性の高い民族が内地へ移るわけだ。当時の富士山は火口から絶えず噴煙を上げていて、周囲から目印になり、全土から仲間の集合場所になっていた。この富士山(火)と湖(水)のコントラストこそが、彼らの火水信仰と合致したのではないだろうか?。ワンネス精神世界ではこの分離と統合こそがテーマであり、火も水も重要な信仰要素だったと見る。

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『忍野八海』(山梨県南都留郡忍野村)、記事中の『水葬』とは無関係注意。

岩間尹著者『開闢神代暦代紀』153ページ引用。

天之世に於いて、死亡した神皇は、遺骸を、大木の皮を剥ぎとり、合竜を造り、その中に納めて、宇宙山の湖水の底に沈め、葬ったのである。宇宙山の湖水は、山の西方阿見太沢にある湖水で、面積は周囲百二十五間で、大きな湖ではなかったが、底知れずの湖と言われた湖で、陵墓としては、誠に絶好な場所で…』

宮下文書での水葬に関する記述はこれだけ…。合竜の意味がわからないのだが、合竜=龕(厨子)のようなものか?、神輿の原型みたいなものかもしれない。

この比定地は不明。しかし『宇宙湖(宇津湖)』というのは、忍野湖と山中湖の原型である巨大湖のこと。この周辺?の宇宙山の西麓・阿見太沢(あみださわ?)に、125間(約230メートル)ほどの『小さい湖』があったようだ。…そして、そこは底知れずの湖だったという。

〜宮下文書時代区分〜

  • 天之世天之神七代(天之峰火夫神ら)
  • 天之御中世火高見神十五代(天之御中主神ら)
  • 高天原世天神七代(クニトコタチ兄弟以降)
  • 豊阿始原世地神五代(アマテラス以降)
  • 神皇(ウガヤ朝以降)
  • 人皇(神武天皇以降〜)

 

時代区分的には『天之世』とあるが…、これも不明。

宮下文書における『天之世天之神7代』を指しているのであれば、それは日本国内高天原ではないハズだ。というのも、タカミムスビ家族らが日本に渡航してきたのが高天原世天神七代、つまりそれ以前の御祖霊となる。このように矛盾点も多々あるが…。仮にタカミムスビ家族らが、海外から日本に来る過程で、故郷発祥地に残した御祖霊を、富士高天原にて祀り直していた…のなら辻褄があう。宮下文書におけるイザナギとイザナミも、代々の神祖神宗を祀る描写がある(後述)。

 

初代ウガヤフキアエズ時代には、エビス御孫の豊玉男命八子、そのうち6〜8子の玉縣彦命・石田明男命・羽茂猛命らが『大海』の防衛拠点を三島(伊豆国)におき、渡住三家と称した。静岡県三島市『三嶋大社』の第一摂社『若宮神社』や、伊豆国に点在する『来宮信仰』やエビス信仰などは、おそらく彼らワダツミ系の信仰であろう。一般的にも、遠い海洋上の伊豆諸島にしか見られない黒曜石が本土で発見されたり、南米エクアドルでは縄文土器や出雲文字の金板が発見されたりしている。加茂喜三氏によると、神功皇后もこれらの古代伊豆における航海技術を三韓征伐に利用したのではないかと指摘している。

やはり…、縄文人は高度な海洋民族だったのではないだろうか?。

wikipedia水葬によると、古墳時代には舟形石棺があり、葬儀世話人をフナウド(舟人)とよび、葬儀を水運に見立てて、ノリフネ(乗り舟)、フネ(舟)と呼んだ。仲直りの象徴として、『過去を水に流す』文化が根付いている。水の流れで祖先を弔う仏教的習慣は、各地お盆行事として『精霊船』『精霊流し』『灯籠流し』として残されているわけだ。穢れの浄化と水葬をうかがわせる形跡は随所にある。

 

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山梨県南都留郡富士河口湖町長浜『貴船神社』

貴船神の正体、水神を祀る政治的な理由?。

その他にも宮下文書には海神・水神系古社の記載があり、興味深いことにその多くが古代戦争と関連しており、戦没慰霊色が強い。

▲京都市左京区鞍馬貴船町『貴船神社』

神武時代の創建。もともと神武東征における、海軍皇族を始め将校神霊を祀る戦没供養施設であった。奇しくも、鴨川上流にて、現在では水神タカオカミやイワナガヒメ(中宮)が縁結びとして祀られている。江戸時代までは賀茂別雷神社の賀茂別雷命も祀られていたようだ。

△兵庫県西宮市『西宮神社』

またエビス様信仰で有名な『西宮神社』、西海の戦没神を祀る宮。宮下文書版エビスは海守であり、ワダツミの始祖、現在では西宮大神(蛭子命)を祀り完全に符合する。

◆津久島『海津住神社』?

宮下文書における附島とは対馬のこと。ニニギ時代、行島(壱岐島)と共に『外寇親征の役』の主戦場の一つとなり、神武東征後に海軍皇族・将校兵卒神霊を祀り始めた。個人的になんとなく考えているのが…、ツクシマというのは、宗像三女神を祀る『厳島(いつくしま)神社』の原型ではないかと…(妄想)。つまり伊豆+対馬≒厳島?、やはり古来からの戦没者供養を彷彿とさせる。

さらに『宗像大社』創建も、戦没供養的要因が強いと考えている。ニニギ『外寇親征の役』の主戦場が附地見島(築市島)であり、初代ウガヤフキアエズが1500日始めて都とした水門が、初古崎(箱崎)となる。因みに『切枝間(霧島)神社』も陸軍戦死者者供養、『阿曽山』には海軍戦死供養施設があった。

全国水神古社というのは、単なるアニミズムでは説明がつかず、あくまで実在していた御先霊信仰を基本としているのではないかとみている。その上で、在地統括祖神・治水・戦死者鎮魂が複雑に入り混じっている印象を受ける。つまりは神社というのは政治的タブーを浄化し、封じ清める場所でもあるのだ。

そう考えると、水神たちのいろいろな役割が見えてくる。誘い導き役であり、来世へ繋ぐ象徴、見送り役なのか…。前記事に記載の通り、延喜式における夏越の人形配流が、壱岐・対馬・伊豆など、主にニニギの『外寇親征の役』関連地域と合致し、戦没者供養的な意味合いもあるのではないかと見ている。

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山梨県南都留郡河口湖町西湖『龍宮洞穴』


水から葬穴に移行、『火雷神』登場。

前述の『開闢神代暦代紀』の続き。天之世から天之御中世に移行すると、『夫婦山合の洞の大穴に鎮め、納祀した...鳴沢山夫婦山の合の沢にある岩石の大穴である』とのこと。つまり穴葬へ変遷する。

 富士朝の葬穴文化の痕跡が色濃く残されているのが、静岡県富士宮市人穴『人穴浅間神社』ではないだろうかと…。浅間大菩薩の御在所とも言われ、人穴浄土ともいわれる。江戸期富士講開祖の長谷川角行は、仙元大日神の啓示を得てから入定した。現在はコノハナサクヤヒメ・徳川家康・角行を祀る。

以降の宮下文書記述、天神七代高天原之世からは、古墳の原型のような埋葬法となる。やはり合竜(龕?)に納めて、方位を決めた上で、土を高く盛りあげて『御陵塚』を作ったとのこと。だとすると今から5000〜6000年以前に、古墳の基礎は日本にあったことになる。またイザナギやイザナミの『岩長の峰』、ツクヨミと月桜田毘女の『加茂山』など、夫婦は同所に埋葬するのが基本のようだ。これも『火』『水』の仕組みの表れとも思える。もともと鳴沢山金山は、ニニギとコノハナサクヤヒメを祀っていた場所である。神武時代に、高天原総司令・神熱都丹波彦命(オオヤマツミ59代子孫)が、富士火口から掘り出し祀られていたコノハナサクヤヒメの『御霊石』を小室の宮守の宮に御移させたという。

注目すべきはこの周辺、エビスの拠点『龍王宮(龍宮)』があり、トヨタマヒメやタカオカミが祀られている地域であることだ。

エビス(栄日子)は、高天原にある『剗の海(せのうみ)』の北に、海守(わたもり)の宮を拠点とする。海守総頭となり全国漁夫神を統括、諱を『龍王神』と称し、子孫がワダツミ系統となる。奇しくも現在の西湖周辺には 長浜『貴船神社』があり、現在でも山梨県鳴沢村近くには『龍宮洞穴』があり、その他にも溶岩流で形成された『富岳風穴』『鳴沢氷穴』など多数ある。やはり地域的にみると、海神ワダツミ系統と水神に関係深い地域、葬穴文化にも関係ありそうに見える...。

 

言わずもがな、初期縄文人は洞穴に住んでいた。本格的に家屋(竪穴式住居?)を普及したのはアマテラスであり、父母イザナギとイザナミは『日向の穴宮の大御宮』に住んでいたという。古事記では、火神カグツチを産んだことでイザナミは自滅し、死体はウジ虫と雷神に支配されていた(頭が大雷神、胸が火雷神、腹が黒雷神、女陰が咲雷神、左手が若雷神、右手が土雷神、左足が鳴雷神、右足が伏雷神、計8柱の八雷神)。イザナギは恐怖のあまり妻イザナミと決別、一目散に洞窟から脱出する。即ち『火』『水』の仕組みの断絶、火雷天神からの脱却を表現していたとみる。西国天皇勢力は10代崇神時代以降、富士朝からアマテラスを強制分離させ『日』の信仰に偏り、自らの御祖神である火雷天神の祟りを恐れていたワケだ。

※因みに宮下文書版カグツチ(火之燿土命)は、ウイジニの御子、月桜田毘女の兄弟に比定される

※因みに宮下文書版イザナギイザナミは、毎晩岩長の峰にて、火の御祖神『火』祭祀を欠かせず行い、『高燈大神』と称された。一日違いで皆に惜しまれつつ仲良く崩御され、岩長の峰に祀られた。

 

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浅間神は地底人?、静岡県富士宮市人穴『人穴浅間神社』

忍野八海とかぐや姫は、地中に還る?。

水葬と関連性は薄いと思われるが…、前述の話を聞くと忍野八海を事故を思い出してしまう。1987年7月16日、テレビ朝日の番組撮影中、撮影クルー2名が水難事故。ベテラン水中カメラマンとアシスタント2名が死亡、うち名の知れたベテランダイバーの捜索に二週間かかったという。事故が起きたのは忍野八海『湧池』で、池底に洞窟あり、入り口が直径1メートル四方と大変狭いとのこと。湖水の透明度は高いが、流れによっては湖底の土砂を巻き上げるために、命綱無しでのダイブはとても危険とのこと。内部は横穴が複雑に入り組んで迷路のようになっているとのこと。それらが富士山や杓子山からの湧水のパイプとなっているという説もあり、ベテランダイバーでも迷う地形なのだ。

もともと八海とは、仙瑞・山中湖・明見湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖・四尾連湖。忍野八海はその富士八海を模して『元八海』とよばれ、富士講『八海めぐり』の巡礼地、富士登山前の御祓をしていたという。1843年に各池守護神の『八大竜王』が祀られた。

・第一霊場『出口池』

・第二霊場『御釜池』

・第三霊場『底無池』

・第四霊場『銚子池』

・第五霊場『涌池』

・第六霊場『濁池』

・第七霊場『鏡池』

・第八霊場『菖蒲池』

 もともと富士朝には『剗の海』『宇宙湖(宇津湖)』『亀湖』ら巨大湖があったわけだ。800年延暦噴火による鷹丸尾溶岩で埋没し、山中湖から忍野八海が分離形成された。剗の海は貞観噴火で埋没し、西湖と精進湖に分断された。巨大な溶岩流の跡に形成されたのが青木ヶ原樹海となる。では…、埋没した湖水は一体何処に消えたのだろうか???。現在でも、本栖湖~西湖~精進湖とは、透水性のある地層で相互に地下水が行き来している可能性もあると言う。内部は複雑な水路となっているとも云われ、巨大な地底湖に通じている噂もあり、解明されていない部分が多い。

※なお山梨県環境科学研究所のボーリング調査からは、山中湖の前身『宇宙湖』の存在は否定されているので注意。

 

そんな忍野八海には忍野八海浅間神社がある。

◯『忍野八海浅間神社』(南都留郡忍野村忍草)

〜御祭神〜

  • 木花之咲耶姫命

〜相殿〜

  • 天津日高日子番能邇邇藝尊(愛鷹大神)
  • 大山津見命(足柄大神)

〜摂社〜

八幡社のとなり熊野三社(熊野三神)家都御子神・熊野速玉・熊野牟須美ほか

 

当社本殿の木花咲耶姫命、鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像は、国指定重要文化財。実は『かぐや姫』伝承と符合し、作竹の翁が『愛鷹権現』媼が『犬養明神』とされる(後述)。また相殿のオオヤマツミが『足柄大神』とされているが、これは足柄峠でヤマトタケルを導いた御殿場市『二宮神社』の雷神伝承と関係ないだろうか?。まあ今回は、このかぐや姫が問題なのだ...。

以前から何度か紹介している、駿河版かぐや姫伝承を少し紹介すると...。

中世『富士山縁起』によると、駿河を舞台とするかぐや姫伝承であり、『翁は鷹を愛し、媼は犬を飼う』とある。帝に求婚されたかぐや(赫野姫)は、育ててくれたお爺さんとお婆さんに、富士山の山頂の『洞穴』に帰らなければならないと伝える。かぐや姫は皆に別れを告げて富士へ登り、帝は勅使を追跡させるものの誰も追いつくことができなかった...。そしてこのかぐや姫の正体は、浅間大菩薩。奇しくも前述の人穴浅間神社『浅間大菩薩』の御在所の穴を彷彿とさせる。

奇しくも、宮下文書版コノハナサクヤヒメは、青木ヶ原の火口に投身自殺をし短い生涯を終えた。そして地中に還る『かぐや姫』に、重なって見えるコノハナサクヤ伝承。富士山『先現(せんげん)神』が、コノハナサクヤヒメに移行されたことを象徴しているのかもしれない...。

 

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現在の『忍野八海浅間神社』鳥居、シンプルに『浅間神社』とある。

<前記事補足>忍野八海に空海と田村麿の気配。

忍野八海浅間神社の創建は807年(大同2年)、宮下文書ではちょうど田村麿と空海が富士朝に入麓している年代となる。当社は度重なる噴火で一時は焼失、平安後期1186年に宇宙湖の涸れた地に『忍野八海』が出現し、それを契機に社殿が再建されている。1193年には鎌倉幕府・源頼朝により、鳥居地峠〜鬼坂に跨がる約5万坪を境内とされ、もともとは旧東海道跡から阿祖谷へと入る鳥居地峠に『随神門』があったという。しかしおかしな話である、なぜ随神門が旧東海道から当社への逆方向『裏口』に向いているのだ?。

実はなんと...、宮下文書ではこの神門はあくまで聖地・阿祖谷七廟への玄関『二王門』であり、空海上人自作の二王像を安置していたのだ。鳥居地峠には大鳥居があり、806年賜われた51代平城天皇『三国第一山』勅額を掲げていたという。しかしその後の貞観噴火864年?に、神額もろとも焼失してしまったのだ。947年62代村上天皇がこれをさらに再建して、勅筆による神額『阿座真明神大社』を賜われた。

これより以前864年に、56代清和天皇が『先現太神大社』から賜われおり、阿座真と浅間の文字が混用・混同・混乱されていった。このように、短期間に変名を繰り返したことで、人々の脳裏から『阿祖山太神宮』の名称は消されていった。

その後の詳細は不明...、勿論現在は見る影もない。鳥居地峠は高座山に行くハイキングコースとなっており、数台の駐車場があるのみ。個人的にはバイクで通るで裏道なのだが...、むしろ...平安時代は阿祖谷へ入る正式な参拝ルートだったようだ(苦笑)。

※現在ストリートビューでもみれるが、峠から北側へ『進入禁止』になる事も多く、対向車回避が難しい山道なので注意。

 

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