セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

祖国のために死んだ神『生島・足島』と『事代主』の関係。天皇守護の宮内八神殿とは何なのか?

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静岡県伊東市十足『引手力男神社』。祭神はコトシロヌシの御子か?


 

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 2019,9,1

 

『八神殿』『宮中八神』のイクシマ・タルシマとコトシロヌシの正体。

皆さんは、生島足島(イクシマ・タルシマ)という言葉を聞いたことあるだろうか?。

皇家や朝廷と繋がりが深い『宮中八神』として有名であるが、実のところ何の神かわからないという。生島足島神社(長野県上田市下之郷中池西)Wikipediaによると、『生島大神』は万物に生命力を与える神、『足島大神』は国中を満ち足らしめる神。漠然とし過ぎている感は否めない…。

それもそのはず、記紀やホツマツタヱではニニギ=国土開発神・農業の神と伝えており、これがそもそもの大きな誤解なのである。これが宮下文書的になると、ニニギは『国防の祖』となり、外国人と戦争をしていた軍神となる。これに従っていたイクシマ神とタルシマ神も、『神道』と『日本の主権』を死守した英霊なのだ。

偽書のススメ2 :ニニギや神武は何と戦っていたのか? - セキホツ熊の謎を追え!

上の記事にも書いたが…歴史は改竄されるのが当たり前。よく考えてみれば、右翼とはかつての左翼であり、革新的指導者が歴史を塗り替えるわけだ。

つまりは、過去次々襲い掛かる外国人から国を守った先住民の美談は、新参者の渡来系には刺激が強すぎる。10代崇神~12代景行天皇の代には、国内の支配層にまで組み込まれていた渡来人を敵視させるわけにもいかず、不要な神話と解釈されていったようだ。かといって、祖国を守った英霊を邪険にも出来ず、意味合いや神名を変えて、今も密かに宮中で祀られ続けているわけだ。

 

~宮中八神『八神殿』天皇家守護の八神~

第一殿 神産日神 神皇産霊神

第二殿 高御産日神 高皇産霊神

第三殿 玉積産日神 魂留産霊

第四殿 生産日神 生産霊

第五殿 足産日神 足産霊

第六殿 大宮売神 大宮売神

第七殿 御食津神 御膳神

第八殿 事代主神 事代主神

 (古語拾語記載の神名)

 

〇『生島足島神社』(長野県上田市下之郷中池西)

創建:不詳

社格:名神大社。

主祭神:生島大神・足島大神(タケミナカタが祀った地主神とのこと)

諏訪神社(下の宮):タケミナカタ・コトシロヌシ・ヤサカトメ

境内社:誉田別命・タマヨリヒメ・イザナギ・ニニギ・コノハナサクヤ・祓戸十三柱(瀬織津姫他)

日本国中心を自称、『日本国総鎮守』を称す。10代崇神天皇の御宇、東北からの賊軍の侵入を阻む目的で創建された。他方で、神代タケミナカタが祀り始めたという地主神という説もある。

 

 

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『知仁勇の賢神』コトシロヌシに究極の忠義をみた…。

このブログでは何度も触れているが、ニニギの御宇、大陸人が日本の附地見島(九州・筑紫)に攻めてきた。

ニニギは周防を拠点に、武知男命(大物主)を総軍司令頭長とし、経津主命・武甕槌尊・玉柱屋命・建御名方命の四軍神を軍大将とした。当時すでに『剣』『弓』が存在していたが、弓・石・木・棒・焚火が主流の原始的戦闘となる。投げ合い・殴り合い・叩き合い中心であり、かなり殺傷効率の悪い、そして過酷で悲惨な戦争になったであろう。

そしてニニギは、参謀職として陣中に少名毘古那命と事代主命をおいた。

 賊将軍勢は、船を利用して南島(四国)に展開してきた。そのため作田毘古命(サルタヒコ)を御前に、ニニギの后・阿田都毘女尊(コノハナサクヤ)と味耜託彦根命と興玉命を副将として軍勢8500神を率い、南島(後の愛媛)防衛に当たらせた。後世アジスキタカヒコネが四国の神、賀茂氏祖とされる理由は、この辺にあると思われる(賀茂氏は宮下文書に登場しない)。

全国300社以上の『賀茂神社』正体解明。富士朝ウガヤ朝・日本最大級の欠史鎮魂神社。 - セキホツ熊の謎を追え!

ただし、当時8500人もの兵隊が集団行動していたか?は疑問が残る。大体、弥生時代までに日本の人口が60万人弱であり、オオヤマツミこと正哉山住がやっと乗馬に成功し始めたころである。こんな兵団が船や鹿で九州に集結できたのだろうか?。どこから来たのだろうか?。もっと原始的な、集団戦を想像したほうが良いのかもしれない。

 ニニギは、コトシロヌシの長子『天之手長男命』と妃『神手長比女命』を、対馬と行島(壱岐島)の最前線を守らせた。しかし夫妻はともに戦死、後に壱岐島・石田の南山と北山に葬られた。これは壱岐国一宮『天手長男神社』にほぼ間違いない。

 

〇『天手長男神社』(長崎県壱岐市郷ノ浦町)

創建:弘仁2年(811年)

社格:名神大社・壱岐一宮。

主祭神:天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命

境内:1940年(昭和40年)天手長比売神社、物部布都神社、若宮神社、宝満神社、粟島神社が合祀された。

 

天手長男神社Wikipediaによると現在、御祭神の『天手力男命』はタジカラオと解釈されているようだ。しかしまあ…タジカラオが壱岐で『海神』として祀られるのもおかしな気がする…。昭和に合祀された旧村社『天手長比売神社』は、妃『神手長比女命』が祀られていたとみる。

天之手長男命には息子三兄弟がおり、『事武男命』『事勇男命』『事力男命』が父親の後任にあたる(下の家系図参照)。事勇男命と事力男命は対馬にて戦死、事武男命は南山の峰、事力男命は北大山に祀る。対馬市巌原町『多久頭魂神社』と対馬市上県町『天神多久頭魂神社』に関係あると推測する。その後、事武男命も壱岐島(行島)の原山にて戦死、場所は不明。

また附地見島では、尾茂太留尊(オモタル)の五子『武佐太毘古命』が防衛していたが、『松浦の湊』にて戦死。これは現在の長崎県松浦市周辺と思われる。

 

ココから推測するに…。

・生島大神のイクシマとは行島(壱岐島)のこと。壱岐島と対馬で死んだコトシロヌシ孫、天手長男命三御子のことであると推測。

・足島大神のタルシマとは尾茂太留(オモタル)尊の五子、スクナビコナとコトシロヌシ弟にあたる武佐太毘古命ではないか?。武佐太毘古は附地見島(筑紫)の松浦で戦死した。これは私見だが、『タル』とはコトシロヌシの父・尾茂太留(オモタル)ではないかと。祭祀上はコトシロヌシ弟にあたる『武佐太毘古命』のことではないだろうか?。

 

※但し注意すべきは、後世の神武時代に、宇佐八子(豊玉彦命)の7子・石田明男51世孫にほぼ同名『天手長男命』が登場している。伊岐(壱岐)島本営から副本営副本陣を設けて元帥に着任している。なにかしら混同された恐れもあるので注意。 f:id:sekihotu:20190831213824p:plain



この最中、南島(現・愛媛県伊予市周辺)では、コノハナサクヤが再会したニニギと喧嘩をし、富士高天原に帰って自殺をしてしまう事件が起こる。詳細は下リンクにて↓。

大室山・伊豆国火之神の誕生秘話。イワナガヒメとコノハナサクヤの姉妹喧嘩に見る真相とは。 - セキホツ熊の謎を追え!

訃報を受けニニギも一端、高天原に戻る。三種神器を『阿祖山太神宮』に納め奉り神軍勝利を祈願、軍勢を立て直し再出陣。そして最終的には外寇戦に辛くも勝利した。

戦後、コトシロヌシは家族らの功績が評価され、子孫一族を東北国に於ける海々までの総司令頭長の家とされる。また、越後の蒲原の里に宮を建てて住み、これを伊夜(伊彌)の宮と称した。現在の新潟県西蒲原郡弥彦村『彌彦神社』や秋田県大仙市『伊豆山神社』はその痕跡と思われる。※ただし彌彦神社は疑問が残る(後述)。

事代主は残された曽孫『武長雄命』を養育するが、病弱で無念にも12歳で亡くなった。この時点でコトシロヌシに残された親族は、妻『高照毘女命』と次男『天香護山命』だけとなる。

ニニギはコノハナサクヤやコトシロヌシ家族への負い目があったのだろう、現代でいうところの、心的外傷後ストレス障害(PTSD)で苦しんでいた。彼は日に日に衰弱し、ついには身体にも異常をきたした。それをみんなで元気付けようと、サルタヒコが猿回しを披露し、アメノウズメが踊り、イシコリドメが焚器を棒でうち叩き音頭をとった。コトシロヌシとタカテルヒメがニニギの左右でご機嫌をとった…。

しかし彼は回復せず、そのまま衰弱死してしまう。コトシロヌシにとっては戦死した一族への無念な気持ちもあったのだろう、だからこそニニギには、回復して欲しかったようだ。

こうしてコトシロヌシとタカテルヒメ夫妻も、ニニギの後を追い殉死する。後世に『知仁勇の賢神』として信仰を集め、イクシマ・タルシマとともに天皇守護八宮として祀られたのではないか?。この主君に対する忠義の姿勢は、少なからず後世『武士道』にも影響を与えたとみる。

悪く言えば、武士の無用なハラキリを助長させたともいえるが…。

コトシロヌシ宗家が途絶えると、次男『天香護山命』の家系のみが残る。初代ウガヤフキアエズの御宇にも、父コトシロヌシを継ぎ『本州東北地方の総司令頭長の職』に就任する。

神武天皇の御宇になると、大国主子孫・三輪氏族にも同名別神『天香護山命』が登場しており、これが後世に三嶋神コトシロヌシを三輪氏族と混同されるきっかけになったとみる。そもそもコトシロヌシ御子を産んだ妃、『タカテルヒメ』は大国主の妹であり三輪氏と同族。当時は純粋に『国防の祖』コトシロヌシ親子を崇敬していたのではないか?。三輪氏『天香護山命』はオオクニヌシ56世孫『大力太命(豊徳知貴命)』の四子、越後国造となり伊彌の宮と称した。…つまり現在の新潟県彌彦神社は、コトシロヌシ次男と三輪氏族『天香護山命』と、どちらが祀られていてもおかしくない状態なのである。

彌彦神社Wikipediaをみるに、この彌彦神社の末社『十柱神社』は本来大己貴神のみを祀っていたそうだ。おそらくは大国主子孫の三輪氏族系の神社であり、三輪氏族『天香護山命』を祀っているとみる。熱海や伊東からレイラインを構成している拠点神社だけに、これは難しい問題となる。

なぜかというと、三輪氏族とは三嶋史をホツマツタヱで隠蔽してきた当事者、コトシロヌシにとっては不愉快?な氏族でもある。コトシロヌシはオオクニヌシやスサノオとともに三輪氏族系図に編入させられ、地祇系に改竄されてしまった経緯がある。三輪氏族(賀茂氏)が衰退するとコトシロヌシ(一言主)信仰は縮小して、エビス様信仰と混同されてしまう。宮下文書において『栄日子(エビス)』とはヒルコ、オオワダツミのことである。

こうしてコトシロヌシ信仰自体が、三輪氏や賀茂氏の氏族間勢力争いに巻き込まれ、衰退したとみる。 

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※参考

~享年~

コトシロヌシ(?)

カモサワヒメ(46歳)

オオヤマツミ(24歳)

ニニギ(43歳)

コノハナサクヤ(34歳10才?)

スクナビコナ(83歳)

サルタヒコ(446歳?)

スサノオ(433歳63才?)

※宮下文書の年齢算出は方法によって開きが出るらしい、あくまで目安。

 

 

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伊豆の謎の神『引手力男』とは?

では伊豆国によく祀られている『引手力男命』とは誰なのだろうか?。

伊豆国の式内社『引手力命神社』の比定候補は、静岡県伊東市『引手力男神社』と静岡県沼津市・大瀬崎にある『大瀬神社』がある。前述した壱岐国一宮『天手長男神社』のようにタジカラオと解釈されているようだが…。そもそも伊豆国で、タジカラオが『海神』として祀られる理由があるのか?やっぱり疑問である。伊豆国といえば三嶋神コトシロヌシ、コトシロヌシ家族と考えるのが妥当であろう。

即ち、天之手長男命は現在で言うところの海兵隊で、最前線の海を守っていたわけだ。

一応、宮下文書的には『天之手長男命』諱、『手長雄命』に比定されそうだ。しかし、なにぶん資料が少ないので断定は難しいところ。前述したが、後世の神武時代に宇佐八子(豊玉彦命)の7子・石田明男51世孫にほぼ同名『天手長男命』が登場している。伊岐(壱岐)島本営から副本営副本陣を設けて元帥に着任している。豊玉彦命7子・石田明男は伊豆にも所縁がある。三島にて太平洋離島管理もしていたようだし、なにかしら混同された可能性もある。 

 

三嶋神の起源、改竄の起源は鎌倉期?

 伊豆には独々の神名が多い。鎌倉後期に成立した『三宅記』によると、三嶋神の後后『伊古奈比咩』、三嶋神と本后あるいは前后・阿波咩命との子『物忌奈命』などなど。伊豆独自の神話体系は、創造主コトシロヌシを中心に家族関係を成す、『海からやって来た者たち』主体の伝承だ。

 これら海洋勢力は、伊豆諸島に往来があったようで、恰もまったく新しく民族が海外から漂流、入植してきたかのような印象すら受ける。この三嶋神勢力は海から来て、まず下田市白浜に上陸、現在『伊古奈比咩神社』が伊豆国最古の一宮を自称している。その後は静岡県伊豆の国市『廣瀬神社』に移動し、現在は三嶋大社に移動したとのことだ。

 

~三嶋神の経緯~

『伊古奈比咩神社』→『廣瀬神社』→『三嶋大社』

 

この『伊古奈比咩神社』伝承が、個人的に最大のネックになっている。言い換えると、もし真実であれば、宮下文書は当然嘘になるわけだ。

一般的に三嶋の伝承は、愛媛県伊予一宮『大山祇神社』、大三島(御島)を起源とされる。これは宮下文書におけるオオヤマツミ死亡地に比定される。あれ?三宅記では、四国ではなくて海外から来たんじゃないのか?。つまり現在の伊豆国史自体が、いろんな嘘が混ざり合って成立しており、めちゃくちゃなのは立証されているようだ…(笑)。

宮下文書で『三島』とは伊豆半島と本州の入り江、当時は海が内陸部まで侵入して三嶋大社付近も海だった。宮下文書曰く『御送り沢と伊豆海と、駿河海との三出張崎の浜であることから、三島浜と称した』という。ここから三嶋信仰は三嶋大社付近発祥なのは歴然であり、伊豆半島南部の下田ではない。ましてや愛媛県伊予一宮『大山祇神社』でもない。

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伊豆国三嶋大社・加茂澤毘女にトコトコついてくる瀬織津姫の不思議①。 - セキホツ熊の謎を追え!

伊豆国三嶋大社・加茂澤毘女にトコトコついてくる瀬織津姫の不思議②。 - セキホツ熊の謎を追え!

 では三嶋神=渡来系という伝承は、何処から発生したのか?。

『海の向こうからやって来た』とは、具体的には何処を指しているのだろうか?。5代孝昭天皇時代の熱海沖初島に漂着した初木姫の様に日向国からだろうか?。それとも東南アジア?中国…。

前述の『三宅記』によると、6代孝安天皇元年、三嶋神は『天竺』から至り、島焼を行ったとする。宮下文書では、孝安天皇時代には熱病・悪疫が流行したと記載されているので、島焼をしたのではないかとみる。ただ、個人的に引っかかるのはこの『天竺』で、もろ神仏習合テイストを感じるのだ(笑)。

三宅記が編纂された鎌倉後期は、仏教確立の時代であり、神仏習合というのは言うまでもなく神道改竄の常套手段である。

つまり伊豆神話体系は、神仏習合により淘汰されたのではないかと…(妄想)。

伊豆の神々は富士朝史隠蔽のために改名された、あるいは存在自体すり替えられた。そのうえで海外から渡来系民族が合流してきた…、と考えればいいのだろうか?。私は海流や伊豆の地形などから、渡来系民族流入の可能性は否定はしない、古来より関東平野などはかなり外国人が入植しているらしいが…。

 

やはり鎌倉期までに何かあったのだろう…、とみている(調査中)。

 

 

※次回記事…。静岡県熱海市の『来宮神社』に、イクシマタルシマ信仰の痕跡を見つけた。

伊豆国三嶋神御子と『海からきた者たち』の正体、ヒントは来宮神『五十猛命』とワダツミの木にあった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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