2023,10,9
瀬織津姫の御正体は、宮下文書版ツクヨミ妃『月桜田毘女命』比定ではないか?という推測をしてきた。今回も二柱を結ぶ大きな共通点を見つけたのでご紹介する。はじめて読む方もいらっしゃるとおもうので、いままでのまとめも兼ねてご紹介を…。
行ったばかりの伊勢参りから、かなりヒントを貰ってきました…。(´(ェ)`)
~目次~
- 宮下文書における月桜田毘女命とは?。
- ホツマにおける瀬織津姫命とは?。
- 瀬織津姫命はなぜ消されたのか?(仮説)。
- 瀬織津姫命とコノハナサクヤの役割の違い?。
- 瀬織津姫命と『白玉子』。
- ツクヨミ夫妻の眠る『加茂山』へ、御神体はヤソマガツヒ。
〈伊勢国巡り〉御船・牟弥乃・蚊野・狭田国生神社と800年延暦噴火以降の水神祭祀。 - セキホツ熊の謎を追え!
宮下文書における月桜田毘女命とは?。
神奈川県徐福研究会三輪本現代訳神皇紀p48.52.60.61を参照すると…。
宮下文書に登場する人物は複数名あるのが特徴。中には幼名・諱・諡などの記載もある。
宮下文書版・月桜田(ツキサクラダ)毘女命。
本名は葦津毘女命、ツクヨミの妃であり、アマテラス・ツクヨミとは従姉妹関係でもある。クニサツチ一男・ウビチニの一女で、ホノカグツチの姉妹?。ウビチニ九女である松島毘女命は実妹にあたり、妹は神皇アメノオシホミミ生母と推定されるが、出産直後に他界したと思われる。
幼いアメノオシホミミはアマテラスの未婚養子となり、スサノオ娘タクハタチヂヒメとの間にニニギを生む。そのニニギは、ツクヨミと月桜田毘女命の孫コノハナサクヤを娶ることになる。
▲ニニギ (クニトコタチ直系玄孫)
▲コノハナサクヤ(クニサツチ直系玄孫)
本来であれば、ツクヨミが神皇を継ぎツクヨミ朝となる予定があった。ツクヨミが全国的に歴史から消されている理由もここにありそうだが…。すなわちここで重要なのは、月桜田毘女命が『正后』となる予定があったわけだ。
しかしながら、ツクヨミは『日嗣は初長子の姉アマテラスに任せる』と言い残して、富士朝から遠く離れた白玉池畔へ逃げ出してしまった。三者の言い分が記されていないので詳細は不明。心から嘘偽りなく姉を慕ってのことなのか…?、それとも皇位継承によるプレッシャーに耐えられなかったのか?。姉に辛い役目を押し付けてしまったのか…?と、いろいろ妄想は尽きない。
※あくまで個人的感想として、このあたりから皇家と日本国民の政治的カルマが刻まれはじめたのかな?と感じてしまう…。
結果として日嗣は、アマテラスこと大市毘女命が継承することになった。ツクヨミ夫妻は西古農里原の白玉池畔に逃れ住み、オオヤマツミら9子を生んだ。
しばらくしてアマテラスと協調体制を取るようになり、姉の政治的サポートをするため高天原へ復帰。日向小室の宮守川の川上に山守の宮を建て、これを加茂山と呼んだ(後述)。全国の『諸国の山々を司る家』という役職を賜り、これを長男が継承して『オオヤマツミ』を称した。つまり阿族のシンボル富士山は、オオヤマツミの管轄になりそうだ。
※加茂山比定地は、↑地図左下の鳥居地峠から権現山にかけての尾根並び、『忍野山』や『金毘羅山』付近?とみられる。
※※前記事で加茂山比定地は、飯盛山〜イモ山付近ではないか?と書いたが間違っていたようだ。言い訳を言わせて頂ければ、高座山=高座神社と決めつけていた為、位置感覚が狂いました。現在の高座神社は権現山にあり、高座山は関係ないようです。
※※※前記事で長男ヱビスをアマテラスの兄と書いてしまった記憶がありますが…、アマテラス(大市毘女命)のほうが上でした。生誕順をいえば、長女アマテラス・長男ヱビス・次男ツクヨミです。
ゴメンナサイm(_ _)m
ホツマにおける瀬織津姫命とは?。
おそらく10代崇神〜12代景行年間ころ、ホツマツタヱが成立したといわれる。
10代崇神天皇以降、権力の象徴『三種神器』を皇家が所持するために、富士朝とウガヤ朝らをスルーせねばならない状況に陥った。言い換えれば、皇祖である旧勢力両朝影響力からの脱却、神系図の大改竄、『そもそも富士朝ウガヤ朝なんてなかった…』という形骸化を狙っていた。
瀬織津姫を始めとする祓戸四柱や、九頭竜神・宗像三女神・ニギハヤヒ・アメノホヒ・オオヤマクイ・ウケモチなども、この時期に初見とされた神々も多い。しかしながら、ある意味本地垂迹と目的は同じ、いや…神仏習合の前段階にあたる。つまり…本地垂迹のように隠されたモデルというか、すり替えられた『核』となる御神霊が必ずいるわけだ。
ホツマツタヱで生まれたのが瀬織津姫ホノコ。
アマサカルヒニ・ムカツヒメとも記載される。オオヤマツミ系統サクラウチの娘で、男神アマテラスの内宮(正后)、皇子としてアメノオシホミミを産む。才色兼備の瀬織津姫はアマテルに慕われ、中宮から彼女を向かいいれるために階段を駆け下りてきた。これをサクナダリという。
妹はワカサクラヒメ・ハナコ。
アマテルの妃の九頭竜モチコとスサノオの不倫関係を、瀬織津姫に密告したために、スサノオに太駒(太った馬)を投げ込まれ殺されてしまう。このワカサクラはの御正体が、先述した宮下文書版アメノオシホミミの実母・松島毘女命の投影ではないかとみている。
※因みに後世の正式名、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の『正哉』とは、宮下文書版オオヤマツミ『正哉山住』から来ていると思われる。つまり、ホツマ版瀬織津姫と宮下文書版月桜田毘女命の、御子同士を意図して混同させているのが分かる。
注目すべきは、瀬織津姫の家系に『サクラ』が付き纏うこと。
前記事では、瀬織津姫の関連ワードとしてサクナダリ・サクラタニ・サナクダリと、『桜田』を彷彿とさせる用語をご紹介した。そして武蔵一宮小野神社のある東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘という地名だが。この付近は宮下氏族吉田氏流関戸氏の拠点でもあり、太田氏や新田氏が神職として関与しており、富士朝色が強かったようだ。
また瀬織津姫は月神として語られる側面あり、愛知県北設楽郡東栄町大字月『槻(つき)神社』の御祭神。また倭姫命や吉田氏が関係していた、埼玉県さいたま市浦和区岸町『調(つき)神社』のかつての御祭神であったともいわれる。
さらにホツマツタヱでは、アマテラスが男神アマテルとして登場する。
理由は複数ありそうだが、背景には縄文時代からの火・水の共生哲学が完全に崩壊したことにある。天皇勢力がこの時代に急いだのは権力の集中であり、各部族を多く統率すること。すなわち有力部族の側室を多く娶ることがステータスだった。その唯一無二の存在が、男神で太陽神アマテルだと主張したかったのかもしれない。
では…仮にアマテラスが男神として。最高神アマテラスの正后は誰か?、…誰であるべきか?。ここで信仰上のアマテラスの『お妃問題』が浮上したと思われる。
宮下文書を読み返してみると、アマテラスは未婚を貫いた女性であったので、火・水の対となるべき御神霊が見当たらない。ただ前述したように、本来神皇となるべき男神ツクヨミの妃、アマテラス従姉妹、クニサツチ直系長男ウビチニ一女という高貴な血筋。月桜田毘女命をモデルとして引き合いに出されるのは自然な流れであろう。そもそも、実際に皇后になる予定があった人物だ。
熊オッサン的には、これ以上の選択肢はないと思うのだが。
(´(ェ)`)
このような紆余曲折で月桜田毘女命をベースとして、歴史から抹消された富士朝水神たちを習合し、『瀬織津姫命』は誕生したと見ている。
※因みにホツマツタヱにおけるニギハヤヒと瀬織津姫は夫婦ではない。時代背景が違いすぎる。
※※瀬織津姫ホノコの『ホノ』は、宮下文書版月桜田毘女命の兄たち、ホノカグツチ兄弟の共通名『ホノ』に由来すると思われる。つまり対極にある火神とは強い絆がある。
瀬織津姫命はなぜ消されたのか?(仮説)。
ホツマツタヱ〜記紀にかけての時代、アマテラスは男女の両解釈あったと思われる。
ただ興味深いことに、後世の日本書紀や古事記では男神でなく女神に戻されている。つまり、アマテラスが女神であったと西国天皇勢力が誤りを認めた。同時にホツマツタヱは不都合となり史上から抹消された。
女神に復帰された理由は不明だが…。考えられる理由として、天災人災が続くたびに人々に罪悪感のようなものがあり、『彼女は、男神にされた恨みを抱いているのでは?』という疑念が蔓延していた。その証明となりうるのが、西国の人々がアマテラス荒魂を、たびたび厄神・疫神として見做している点にありそうだ。
瀬織津姫の別名はヤソマガツヒ。
wikipedia荒祭宮によると、アマテラス荒魂は瀬織津姫とかヤソマガツヒと呼ばれていた期間がある。古事記によれば、八十禍津日(やそまがつひ)神とはイザナギが黄泉の穢を祓ったときに生まれたとされる神。
さらに、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)とも呼ばれた。ホツマツタヱにおいては、瀬織津姫の別名が向津媛命と明記されており、天疎とはそのまま『天に背く』という意味と推測。
西国天皇勢力側には、アマテラス・月神・伊豆神を憎んで詰りつつも、頼らねばならなかった事情があったようだ。そのほとんどが、まつりごとが思い通りに行かない事を嘆いた権力者サイドの逆ギレにある。それでも天災人災は続いてゆくわけで…、『知られてはならない、祀らねばならない』基本原則は変わりなかった。こうして…、おそらく4世紀以降〜飛鳥時代頃までは、アマテラスは男神でなければならなかった。
宮下文書における『空白の4世紀』とは。ヤマトタケル東征後、富士朝が統治する大宮司宮下家が独立自治を認められ、東国で『吾嬬惣国』を誕生させていた頃。つまり日本国が、東西に二分されていた時代に該当する。西国の人々にとっては、彼らのルーツ富士山を忘れることを強要された時代でもあるため、アマテラスを女神として語ることがもっとも困難だった時代と思われる。ただ依然として、東国を夢見た富士朝信者は根強く残っていたとも思われる。
苦肉の策として、アマテラスの女神側面として祀られていたのが瀬織津姫だったのではないか?。全国的に消されつつあった月神ツクヨミの名代としての立場もありそうだ。
7~8世紀の『古事記』『日本書紀』の編纂時代に入ると、宮下文書の記載は極端に少なくなるので何とも言えないが。おそらくは東西が再び統合されていく流れにあったと思われる。西国天皇勢力が東国までの求心力を維持するには、東国の人々の信仰心をある程度掌握する必要がある。アマテラスは女神に戻したほうが都合が良かった。
ただアマテラスが女神を公言できるようになると、妃としての瀬織津姫の役割は一幕を迎えたと思われる。それは単に『女神ならなんでお妃様が必要なのか…?』、矛盾点となってしまうわけだ。かと言って祀らないわけにも行かず...、瀬織津姫の名を消して『アマテラス荒魂』に戻されたパターンもありそうだ。
(´(ェ)`)
その後の瀬織津姫は、ミズハノメなどの水神信仰に特化してゆくことになる。これが平安時代の800年延暦噴火ころからは、富士山鎮火祭で活躍することになる(後述)。
このように瀬織津姫命の役割は月神→妃神→水神と変遷してきた、それぞれは実に長期間に渡っており、我々が見ているのは一つの側面でしかない。その間、全国神社の御祭神変更が行われた可能性も高く、各地の瀬織津姫系神社の全てが月桜田毘女命と一致するとも限らないだろう。
神社由緒が、御祭神と違うのはよくあること(´(ェ)`)。
瀬織津姫命とコノハナサクヤの役割の違い?。
これまでも何度も御紹介してきたように…。
800年延暦噴火以降、富士山二十里四方の村々は火の海と化し、人々も動植物も魚も焼け死ぬ。まさに地獄絵図と化していた。以降、富士山の噴火活動期は実に280年、断続的につづいていた。死者の穢れが滞れば政治的禍に発展する、支配者たちにとっては速やかに、水神や祓戸大神による鎮魂祭が必要性があった。これには坂上田村麿・最澄・空海が派遣され、鎮魂鎮火祭祀を各地で任された。
噴火活動の初期段階…、坂上田村麿が瀬織津姫ら水神による鎮火祭を行っていた。807年(大同2年)前後から、征夷大将軍・坂上田村麿などが鈴鹿御前や伊豆権現ら瀬織津姫命を祭祀させている様子が伺える。早池峰山伊豆権現といい、信州安曇野梓水大神といい、鈴鹿峠鈴鹿権現といい…、いずれも坂上田村麿やその家族と縁が深い地域になぜか瀬織津姫が関係している。
そして空海による宗像三女神祭祀や、日光二荒山神社の田心姫降臨伝承や、最澄が玄界灘の対馬や壱岐島で、雷神祭祀をしていた形跡もある。彼らの本当の姿が垣間見られる訳だ。ただしこれらは単純に、火神を水神で鎮魂する外科的手段でしかなく、応急処置的なものであった。現にこれだけでは、富士山の噴火活動は収まる気配もなかった。
そこで西国天皇勢力は、富士山の総括的に鎮魂する方向へとシフトチェンジした。注目されたのが、宮下文書では富士山火口に投身自殺をした、富士山内部に眠るコノハナサクヤ御神霊であった。
西国はコノハナサクヤ祭祀を強化・定着させる一方で、奇しくもこれが噴火活動の沈静化時期と一致していた。噴火が収まれば当然…、浅間神コノハナサクヤ祭祀は『効果あり』と認められた。結果として富士山周辺はコノハナサクヤの『浅間神社』だらけとなってしまうが...、裏を返せば、日本人がどれだけ富士山の怒りを憂いていたかを物語っている。
そして、鎮火祭の影で活躍した水神・瀬織津姫の役割は埋没してしまい、ここに一幕あったのかもしれない。
ご存知の通り、平安時代の富士山噴火史は黙殺されてゆく現状にある。富士朝関係氏族の避難活動が引き起こした、935年平将門の乱などの東国地殻変動を、現代の歴史家・有識者・出版社はなぜか無視しているのが現状だ。そうなると各地で英雄譚と化した坂上田村麿や、瀬織津姫は一体何だったのか?という、謎だけが残るのは当たり前。富士山の歴史を語らねば、日本史は永久に解明しないであろう。。。
※宮下文書によると、富士山=コノハナサクヤという解釈が始まったのは7代孝霊天皇時代にあったようだ。このあたりはまた別記事でご紹介します。
(´(ェ)`)
瀬織津姫命と『白玉子』。
前記事では、各地の瀬織津姫系神社で、白玉・玉子を特別視する傾向があるのをご紹介したが。実は…、月桜田毘女命の御子オオヤマツミの本名?幼名?が、白玉池で生まれた『白玉彦命』だと判明した。
つまり白玉=オオヤマツミ?、これら纏わる神社は月桜田毘女命の可能性が高い?。
〜瀬織津姫系神社と白玉の関係〜
- 西都市・速川神社:玉子を奉納。
- 箱根町・深沢銭洗弁財天:玉子を奉納。
- 清水区・瀬織戸神社:白玉砂利を奉納。
因みに、宮下文書記載のツクヨミ居住地、御子オオヤマツミ生誕地の『西古農里原家司眞の里白玉池畔』とは…。三輪本現代訳神皇紀巻末地図によると、静岡県富士宮市にある浅間大社境内の『湧玉池』と見られる。だいたい富士山を中心に、富士朝高天原を北東の鬼門に拝する。
◯『富士山本宮浅間大社』(静岡県富士宮市宮町)
〜御祭神〜
- 浅間大神・木花之佐久夜毘売命
〜配神〜
- 瓊々杵尊
- 大山祇神
〜湧玉池末社・水屋神社〜
- 御井神
- 鳴雷神
※湧玉池・禊所あり。
〜湧玉池・厳島神社〜
- 市杵嶋姫神
また一方で、滋賀県甲賀市土山町『田村神社』も興味深い。この現在の田村神社付近では、玉子を食べることを禁じているという。
御祭神は坂上田村麿公ではあるが、田村麿が存在する遥か以前の垂仁時代45年の創建。11代垂仁天皇皇女・倭姫命の生霊を祀る『高座大明神』としたとのこと。もとは鈴鹿峠に存在していたものを現在地へ分霊。残された鈴鹿峠の田村神社は、現在地瀬織津姫らを祀る『片山神社』へ合祀されている。鈴鹿御前≒瀬織津姫とも解釈される。
このブログの読者ならば、この斎王の倭姫命と瀬織津姫の関係…、田村麿と瀬織津姫の関係…、高座大明神が何を意味しているのか?お分かりだろう。
ツクヨミ夫妻の眠る『加茂山』へ、御神体はヤソマガツヒ。
さて、今回の富士朝神社巡りの目的は、山梨県山中湖西地区の『加茂山』を探すこと。
宮下文書三輪本現代訳巻末の古地図によると、加茂山のお膝元には、宇宙湖(山中湖の古名でウツノウミ)が迫っていた。ツクヨミ・月桜田毘女命との居住地であり陵墓となる。その後ヒコホホデミによって、彼の外祖父オオヤマツミ・カモサワヒメ夫妻を『山守大神』として祭祀するようになった。上地図注釈で述べたように、具体的には鳥居地山から権現山(高座神社)への並び、現在の忍野山や金毘羅山付近を指すと思われる。
Wikipedia忍野八海によると、宮下文書曰く800~802年の噴火により鷹丸尾溶岩の噴出、宇宙湖が山中湖と忍野湖(忍野八海)に分断された。ただし山梨県環境科学研究所のボーリング調査によりこの宮下文書説は否定されているので注意。
806年(大同元年)、勅使として征夷大将軍・坂上田村麿が空海上人とともに富士朝入り、富士朝復旧活動に着手する(現代訳p206)。太神宮前坂に空海自作の二王門を、鳥居地峠に平城天皇勅額を掲げた鳥居を建てた。いずれも直後の貞観噴火にて焼失する。
現在、これらの面影とみられるのが807年創建『忍野八海浅間神社』、810年空海開基『忍野山・東圓寺』。そしてこの付近『蛇頭疫神社』の御祭神が、これがなんと…!、オオマガツヒこと大禍津比売命、ヤソマガツヒこと八十禍津比売であった。
月桜田毘女命≒瀬織津姫≒ヤソマガツヒの公式成立か???。
◯『蛇頭疫神社』(山梨県南都留郡忍野村)
〜御祭神〜
- 大禍津比売命
- 八十禍津比売(瀬織津姫の別名ヤソマガツヒ)
次回記事では、加茂山比定地と忍野八海付近を『神社巡り』記事としてご紹介する予定…。
お楽しみに(´(ェ)`)。