2019,2,24
応神天皇より謎?、徐福と武内宿禰の謎の交流。
15代応神天皇が謎の存在なのは周知の通り。しかしもっとホラーな存在なのが、応神天皇腹心・武内宿禰である。
宮下文書でも武内宿彌が長寿なのは早い段階で確認済、7代孝霊天皇の代から12代景行天皇の代に登場、以後15代応神天皇とともに名前のみが登場。宮下文書記述のみで、少なくとも紀元前290~123年生きており、Wikipediaでは12代景行年間に生まれて300年。即ち、16代仁徳天皇まで仕えたとあり、世間一般認識よりも早く生誕していることになる。一方、13代成務天皇と14代仲哀天皇も謎多きの存在とされ、この2代の年数を引けば武内宿禰の長寿も多少は頷けるのだが…。さらに、残念ながら文献内に彼の出自がなく、個人的に彼の出自は、蘇我氏系統か天足彦国押人命あたりと関係があるのかな?…と想像している。
そのほかに特筆すべき点は、彼が富士高天原に来訪してきたときに、徐福に大変興味を示したという。徐福が日本に到来してきたのも7代孝霊天皇の御宇、紀元前219年。年代も符合するし、武内宿禰は徐福の弟子になり『徐福学』を学ぶ、少なくとも二人はかなりの交流があったとされる。
徐福の富士朝貢献度は高く、現代に残るこの宮下文書『神皇紀』(写本)も神代文字を漢字化したのも徐福といわれ、後述する応神天皇の皇子『大山守皇子』は徐福の子孫であると宮下文書に明記されている。ということは祖母・神巧皇后、或いは母・高城入姫命あたりが徐福の血縁なのか…???。その後大山守皇子は、徐福が関与したと思われる『高間原神代実記』と『高間原神都実記』などを録取し残す。
応神天皇が東西を繋ぐ架け橋、八幡神になった?。
12代景行天皇の意志を継いだ天皇勢力と富士朝は良縁、15代応神天皇は富士朝に二人の皇子を託してきた。いきなり皇子のお話で恐縮だが、残念ながら宮下文書には応神天皇・神巧皇后の記載は殆どない。しかしこの皇子がのちのちの富士朝にとって重要な人物となる。
神巧皇后摂政時代54年?(254年)二人の皇子が富士山朝に来訪、これが『大山守皇子』と『隼総別皇子』で、二人はそれぞれヤマトタケルの愛娘・福地媛の娘『気久野采媛(菊野媛)』『女登利媛(桜山媛)』を妻とする。即ち12代景行天皇の曽孫娘に当たる。当初の彼らの目的は、応神天皇側によるお目付け役だった可能性もあり、天皇側にしてみれば富士朝は気が気でない存在でもある。
312年に15代応神天皇が崩御すると、大山守皇子は父の遺髪と神功皇后の弓矢を祀り、『高御久良神社』とした。応神天皇崩御後、良縁も束の間、富士朝背後の東国勢力が大山守皇子を奉じて16代仁徳天皇に反旗を翻す。東国勢力はヤマトタケルの東征を全く懲りていなかったようで、東西勢力が福地川(現・静岡県富士川)を挟み激突、その間に大山守皇子は神奈川県伊勢原付近に隠れていた。これを後の『大山』とする。
<レイラインの美学⑬>鎌倉幕府と御室山の繋がりにみる御霊大神。三浦半島は富士朝のお膝元であった。 - セキホツ熊の謎を追え!
一方の仁徳天皇軍は、溺死体の一つを大山守皇子と誤認し、敵将を討ち取ったと撤収、つまり本当の決着はつかなかった。いやむしろ東西の認識の違い、富士朝は完敗したとの誤解が溝を深化させた結果になったのか、Wikipediaによると西側の見解は恐ろしいほど違う。大山守皇子は弟・仁徳天皇の皇位を奪おうと策略し、宇治川(淀川)渡航中転覆させられ溺死したと、富士朝との戦争そのものが完全にスルーされた虚しい結末。このころから富士朝の存在は徐々に低下し始めたのであろう。
以降、この大山守皇子子孫が富士朝の象徴である『阿祖山太神宮』の大宮司家・宮下家となる。ただし、形式上は宮下記太夫明仁彦(福地佐太夫後継の祖佐男命68代の後胤)と称した。以後宮下家により『宮下文書』は継承されてゆき、ヤマトタケル以降再び天皇家の血が富士山に回帰することとなる。そして大山守皇子・弟の隼総別皇子がその補佐・中宮司となる。
※大山守皇子のWikipediaは全く違う内容なので注意(下リンクにて↓)。
大山守皇子 - Wikipedia
話が逸れるが、前述の大山守皇子創建『高御久良神社』について、あくまで個人的に思うのは…福岡県『高良大社』の謎の神『高良玉垂命』とは、富士朝版・応神天皇信仰なのではないかということだ(妄想)。また京都『石清水八幡宮』境内にも『上高良社』と『下高良社』があり、上社には武内宿禰が祀られ、下社には高良玉垂命が祀られ『八幡の氏神』と表記されている。即ち、欽明天皇32年に応神天皇が『八幡神』として示顕し、八幡三神が祀られ始めてから、『高良玉垂命』は行き場をなくして謎の神にならざる得なくなったわけだ。そして、大山守皇子の子孫が『太田氏』を称した。これは南北朝時代の太田道灌で有名な太田氏祖なのか?。一般的には太田氏は清和源氏・丹波国桑田郡『源広綱』を祖としているが…。後世、彼らは太田鍋島氏として九州佐賀に渡り江戸時代幕末に至る。この辺を調査中、分かり次第記事にしたい。
いずれにせよ富士朝周辺には徐福勢力の痕跡が多く残されており、羽田氏(秦氏)など富士朝にかなりの影響力を持っていたとみる。
このように日本武尊と応神天皇は東西に血を分けた象徴となる、いわば歴史の、東西のクロスポイントだ。
但し別記事でも後述するが、どうやら宇佐神宮由来とされる『八幡神』というのは、応神天皇遥か以前、古代富士朝の『西征』に登場した東国神であるようなのだ。八幡を祀る行為とは西国価値観の押し付けなどではなく、どちらかというと東国富士朝的価値観なのかな…と。後世歴代征夷大将軍たちがその威を借り、東西統治と東西調和に戦争利用したのではないか?。
東西の融合承認された価値観だからこそ、権力者にとっては、東国民も西国民も平伏す免罪符として利用できた。まさに『軍神』である。
※応神天皇ではない、オリジナル『八幡神』については下リンクより↓
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※地図はクラフトマップ使用。
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