セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

<宮下文書>楠新両家が滅んだ上は足利一族を砕く大将は、我が国大日本にお前しかいない。

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富士王朝とウガヤ王朝は夏至レイラインで結ばれる。

 

 

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 2020,2,9


足利北朝と南朝富士朝の関係が明らかになる。南朝の匿城『宇津峰南城』

前記事にて清和源氏の加茂次郎義綱子孫・三浦氏が『宮下家』と合流した旨を述べた。しかし、源氏同士の憎しみ合いの序章に過ぎなかった。宝治合戦(1247年)で三浦氏勢力は北条政権に敗れ、一部富士朝へ逃れる。三浦義勝は王政復古の志を持ち、新田氏とともに討幕運動に傾倒していく。

 

 57代富士三浦左京亮義勝『三浦義勝』の時代。

宮下家の三浦義勝は、新田六郎太郎朝氏の娘(新田義貞の妹)の鶴江を娶る。宮下家は北条討幕誓約の折、新田氏に羽田時能ら三名を人質に入れる。さらに藤原藤房・楠木正成と密約し、新田義貞と共闘を密談していた。

武蔵国・分倍河原の戦い(1333年)にて、膠着状態の新田軍に、三浦義勝が相模の国人衆とともに合流。新田義貞に『未明に幕府軍を急襲すべし』と進言、幕府軍を滅ぼす。建武の新政(1333年)にて、その功で従五位源太夫に着任し越中守(三浦越中守)を称した。

現代ネット上検索しても、三浦義勝の名前はある程度ヒットする。しかし、あくまで新田軍に寝返る鎌倉武士残党であり、よもや富士朝大宮司などとは思われてない。新田軍から見れば、富士朝軍の参入は頼もしい増援であったろう。

そして分倍河原(東京都府中市)は、『夏至レイライン』周辺にあるのも興味深い。

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護良親王と村上義光(河内源氏庶流)を祀る鎌倉宮。

翌1334年、征夷大将軍護良親王は一早く足利高氏の野望に気付き、96代後醍醐天皇に追討令を請うも見捨てられる。南朝側の有能な人材が、鎌倉に流罪となる。この際、護良親王の王子・万寿王(9才)を楠木正成と二条大納言為定の共謀により、富士朝太神宮へ逃すことに成功。その後、宇津峰南城(山梨県富士吉田市周辺?)に密かに住まわせた。

その後の護良親王は特に記載なし、『太平記』どおり鎌倉将軍府に幽閉され殺害されたとみる。『武家よりも君(後醍醐天皇)が恨めしい』と、深い恨みをもって死んだ。

護良親王は、弟に宗良親王がいる。

 

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~ここで一般的な史実と比較してみよう。~

▲Wikipedia宗良親王

延元3年/暦応元年(1338年)には、義良親王と宗良親王は北畠親房に奉じられて伊勢国大湊より陸奥国府(現・福島県伊達市)へ渡る。途上、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着、井伊谷豪族の井伊道政のもとに身を寄せる。その後、義良親王は後の97代後村上天皇となる。

 

△宮下文書

延元三戊寅年(1338年)6月宗良親王が小室宮下の館に入る。匿城である『宇津峰南城』籠る。はじめから富士朝に籠る目的であったようだ。

※因みに58代宇津左京亮義利が、井伊遠江守道政の二女を娶る。


 

宗良親王は護良親王の96代後醍醐天皇の異母兄弟。つまり万寿王は甥にあたる。宗良親王は万寿王を元服させ『興良親王』と称した。国賊足利を滅ぼし、国を再興させるという意味。

1341年、吉野(南朝)から富士朝へ使者あり、興良親王を征夷大将軍と常陸太守に任命。常陸の『陸』の字を取り、陸良親王と改称した。Wikipediaには、陸良親王と別人あるいは同一人物の両可能性が指摘されている。

この時点で常陸合戦の真っただ中であり、南朝軍結束を促す目的であったとみる。その後の足取りは不明、Wikipedia興良親王によると関東各地に逃避し、京都に幽閉される。その後一旦救出されるも、消息不明という。

1349年、97代後村上天皇より宮下家57代三浦義勝へお言葉がくだされた。『楠新両家が滅んだ上は賊である足利の一族を砕く大将は我が国大日本にお前しか他に居ない』

宮下文書曰く

『義勝は心に深く感じて泣き、遂に軍備を整えるに至る。』

1355年、征夷大将軍・宗良親王が新田義宗(新田義貞の三男)と脇屋義治ら越後や上毛に10万(?)といわれる兵力を吾妻に布陣した。足利統治下に再び堕ちた鎌倉を襲撃、三万の軍勢で、足利尊氏を迎え討つことになる。

しかし軍内に反逆者が出て、部隊は大混乱。新田義宗に親王を信濃へ逃亡させる。そして三浦義勝自身は、自軍316人と枕をならべ自刃した。時に7月21日。享年56歳。

 

58代宇津左京亮義利の時代。

三浦義勝の長男。父を継ぎ『越中守』を称した。父亡き後、宇津峰南城にて宗良親王とその王子、尹良親王を守護した。親王をお慰めするべく、宮下文書のうち徐福伝・寒川日記・作田彦命歴代記など古文書を写本し、献上した。これが後々、不幸中の幸いとなる(後述)。

宮下文書における宗良親王消息は不明。

Wikipediaによると諸説ある。1344~1373年まで伊那郡大河原に入り、晩年薨去に至るまで拠点にし、ここから武蔵野合戦(1352年)など各地遠征していたという。いやいや。信濃宮神社がどんな山間部酷所にあるか…これはありえないだろう(後述)。また別の説では、1385年遠江国井伊城にて薨去、墓所は現・静岡県浜松市北区という。

どの説も宇津峰南城の記載はない、というか…不思議なことに、どのWikipediaも宮下文書は完全に避けられている。

尹良親王が上毛に移られる折、義利は警護し、無事に送り届ける。親王はたいそう喜ばれ義利に『道次』の名を与えた。以降この道次を名乗る。しかし以降は、事実上の逃亡生活であったようだ。信濃諏訪から同国大河宿(長野県下伊那郡大鹿村)に移り、山中土地の賊徒に襲われる。道次は最後まで親王を守り抜き戦死、尹良親王も殺害される。道次、時に8月15日。享年88歳。

Wikipediaによると尹良親王は、歴史的実在性を疑問視されている。宮下文書で疑問点は、下伊那郡大鹿村『信濃宮神社』から西南40㎞も離れた阿智村に、『浪合神社』『尹良親王墓』などがある。

あくまで推測だが、宗良親王はかなり晩年まで、富士朝宇津峰南城に籠っていたのではないか。その後、尹良親王が井伊氏拠点を頼って、伊那から南下していたのではないかとみる。

このルートは現在・国道152号秋葉街道『南朝の道』と呼ばれている。バイク乗りには有名な『酷道』。私も付近まで行ったが、大人数の馬が通るのは極めて困難。それゆえの秘密拠点があったかもしれないが…。



59代宇津源太夫宗正以降

57代三浦義勝以降、南朝を支援し続けてきたことが足利・室町幕府側に露顕。1408年、富士十二郷初め太神宮神領を没収され、上杉民部太輔顕憲に与えられた。太神宮神官の多くは戦死、宮下家も衰退。宮下文書60~65代大宮司は名前だけの掲載となっている。

時代が変わり…260年後、江戸時代1668年、67代宮下甚太夫宗忠の時代。宗忠が甲斐谷村藩主・秋元喬知と対立、斬首される。49代宮下源太夫義仁が謄写した古文書が焼却処分される。

しかし領主の隙をみて、部分的に宮下家関係者により逃避されていた。このとき義利(道次)が尹良親王に捧げた写本が、辛うじて残っていたという。

奇跡という他ない。

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北東本宮小室浅間神社の『旧社』境内。南朝慰霊碑。


オカルト文献の『記紀』に比べても、宮下文書は非常に現実的な書物なのだが。

偽書かどうかは置いておいて、こういう奇跡的な因果関係が記述されているのは面白い。実際、古文書後半の記述は、涙なくては語れないほどの奇跡が詰まっている。涙でもう読めない、オッサンをこれ以上泣かせないでくれという程に…。

個人的に、もう時代なんてどうでもいい、これが嘘でもいい、現代に心を震わせる感動こそが事実である。

 

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