セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

2月2日富士朝陥落、宮下氏族吉田氏と吉田神道の『節分』鬼退治の謎?。

f:id:sekihotu:20200328103524j:plain

f:id:sekihotu:20200328103456j:plain

大河ドラマの頼朝の子・伊東千鶴丸が祀られていたという...。
元御島伝承がある『富戸三島神社』(静岡県伊東市富戸)

2022,2,5

ちょっと予定変更…。吉田神道と吉田神社を調べていたら、面白い節分ネタが出てきたのでご紹介する。以前から吉田神道って、宮下氏族吉田氏と関係ないのかな?…と漠然と考えてきたのだが、その糸口となるかもしれない。ま、今回はあくまで、吉田神道と富士朝との接点を探ってみたい。

残念ながら『節分』に間に合わなかったけど…

(´(ェ)`)

~目次~

 

伊豆卜部氏系・吉田家とは?

卜部氏wikipediaを要約すると、もともとは亀卜を執り行う品部で、各地で様々な系統氏族が存在する。このブログでは何度か紹介しているが、伊豆・壱岐・対馬は神祇官が任命され、次官(大副・少副)には伊豆卜部氏が、その下に伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の、それぞれ能力に優れた人材が任命されていた。実はこの三カ国、宮下文書におけるニニギの古代戦争『外寇親征の役』と密接に絡んでくる重要地域なのだ(後述)。

この伊豆国卜部氏嫡流が、後の室町時代に吉田家を称し、吉田兼倶が誕生。兼倶により『吉田神道』が誕生する。諸説あるが、伊豆・壱岐卜部氏はそれぞれアメノコヤネ系統・中臣氏を祖としており、祖先に卜部平麻呂(807年伊豆国生まれ)がいる。武蔵卜部氏とも同族との説もあり。

但し、家系図的には不明な点も多いようだ。霊的能力を重視していた氏族であれば、遺伝子的な繋がりよりも庶子・猶子・養子が多かったのではないか?とも思えるのだが…。

 

 

吉田神道とは?。

吉田神道wikipediaを要約すると、室町時代に誕生した中世神道思想の集大成。本地垂迹を基本としていた両部神道や山王神道などに反して、『唯一神道』を提唱している。様々な既存宗教を取り入れつつ、神道が独自の教義・経典・祭祀を持つきっかけともなった。本地垂迹において唯一なるものを『神』として、森羅万象・宇宙は神に基づくという宗教観・哲学観を広めた。

▲本地垂迹説…御祖霊を仏にすり替えた。

吉田神道…御祖霊を森羅万象の事象と捉えた。

この日本人特有の祖霊信仰を、森羅万象の事象やアニミズムにすり替えたスタートなのでは…?。

 

◯『吉田神社』(京都市左京区吉田神楽岡町)

〜御祭神~

  • 建御賀豆智命(タケミカヅチ)
  • 伊波比主命(フツヌシ)
  • 天之子八根命(アメノコヤネ)
  • 比売神

〜大元宮・天神地祇八百萬神〜

  • 天照皇大神(東神明社)
  • 豊宇氣比売神(西神明社)
  • 東西諸神社  式内神3132座



もともとは859年(貞観元年)、藤原山蔭が氏神として春日大社から勧請した、春日四神を祀る神社であった。

室町時代、伊豆ト部氏末裔の吉田兼倶から吉田家を称し、『吉田神道』が誕生。1484年(文明16年)、斎所として、『虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)』を祀り大元宮を創建。全国の神々は吉田山にいると説き、日本の神道の再編・統一を目指した。当時、北畠氏ら南朝・吉野方についていた伊勢神宮は発言力を低下させており、これに反発していたという。

江戸時代には、天台宗・天海・山王権現との対立も見られたが、幕府より神社取締の権限まで担い、神道の主流になってゆく。寛文5年江戸幕府が定めた『諸社禰宜神主法度』では、吉田神道の許状なくして、神職としての神事祭礼も認められないまでになっていた。例えば、豆州賀茂郡下田町の八幡宮神主・碓氷家『藤原常継』の例では、官位受領手続きに多額の金銭を要求され、その見返りとして対象神職に『藤原』姓を授与されたという。つまり藤姓というのはもはや、神職の間では『吉田神道ブランド』の装飾品と化していたわけだ。そもそも伊豆卜部氏自体に藤原氏仮冒説も在り。

※ただし、吉田神道における江戸期の藤姓授与は、対象神職一代のみで、子々孫々継がせることは禁じられていたので注意。
勿論、反発も大きかったようで、この様々な宗教を取り入れて肥大化してしまった神道に反し、平田篤胤らのシンプルな祖霊信仰・古神道への回帰の流れも台頭してゆく。

 

吉田神道による、節分鬼退治の正体?。

節分wikipediaによると、そもそも節分の起源は、中国で年越し、または立春の儀式であったとされる。つまり近年明治6年以降の節分祭とは、新暦立春と旧暦元旦がごちゃまぜになっていた可能性はある。1月1日元旦(旧暦)→2月2日立春ころ(新暦)

吉田神社HPによると、吉田神社で行われる『節分祭』は、『室町時代に執行されて以来、信仰と伝統を誇る京洛の一大行事』として、毎年節分日の前後に渡り大々的に祭事にされてきたという。祭りの内容は、『鬼』=『悪神』『疫神』退治ということになる。最後は『火炉祭』と称する火祭りで、巨大な火炉を設け『浄火』をする。また、ここから天台宗『西山善峯寺』(京都市西京区大原野小塩町)までレイラインを形成している。

 

〜吉田神社節分祭~

①疫神祭(疫神鎮魂)

神々が『山』『川』に、荒ぶることなく鎮まるよう斎行される。

②追儺式(鬼を追い払う)

陰陽師が祭文を奏上し、上卿以下殿上人が葦矢を放ち、疫鬼を追放する。

③火炉祭(浄火する)

三ノ鳥居前にて、巨大火炉を設置、古い神札などを『浄火』する。

f:id:sekihotu:20220205151619p:plain

吉田神社・裏鬼門にあたる律宗大本山『壬生寺』でも節分が恒例となっており、72代白河天皇の発願により、900年もの伝統行事とされる。西山善峯寺は、72代白河天皇より本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼などを寄進されている。そしてこれらの鬼門に当たるのが『日吉大社』(滋賀県大津市坂本)である。ホツマツタヱにおけるヤマクイは、大日山『富士山』を見たてて日似山『比叡山』を造営した。現在も日吉大社にはオオヤマクイが祀られている。宮下文書研究家・鈴木貞一によればオオヤマクイと富士朝オオヤマツミは同神としている。

つまりこれは、富士山の見立て(天台宗や山王神道)に対する鬼門封じなのだろうかと???。どこか、平安期807年(大同2年)の富士山延暦噴火・鎮火祭に近いものを感じる。

ここで…室町時代の富士朝について振り返ってみよう。

鎌倉時代初頭、源頼朝により再興された富士朝は一転、頼朝子孫と三浦氏・和田氏を徹底排除した北条得宗家に弾圧されはじめる。その後1333年、後醍醐天皇と新田義貞と富士朝大宮司・57代富士三浦左京亮義勝が秘密裏に同盟を結び、北条得宗家を討伐。これが室町時代の幕開けとなる。その後後醍醐天皇の子孫・南朝方が失脚しはじめ、南朝軍の事実上司令塔となっていた三浦義勝が、1355年上毛吾妻にて316人の集団自決を敢行。1404年2月2日、足利幕府軍、上杉顕憲(憲顕のことか?)・千葉兼胤(妻は上杉氏憲)らにより富士朝が陥落した。これは明治以降の太陽暦三月に該当し、おそらくは降雪シーズンを避けて侵攻したのだと思われる。

1404年2月2日…(失笑)。

あくまで結果論として言えば、2月2日とは、陥落した富士朝におけるオリジナル神道と、吉田神道が入れ替わり、台頭した日とになる。つまり節分『鬼退治』とは、まるで富士朝の封印儀式のようにも見えるのだ。

室町幕府は見えない敵の富士朝に攪乱されていた、尹良親王『田貫の長者』の真相。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

f:id:sekihotu:20190804205234j:plain

『八巻神社』(茨城県つくば市山木)

ところで…『豆』って何?

では、なんで節分に『豆』を撒くのか?。中国の習俗で『魔滅(まめ)』、無病息災を祈る意味というが…、なんか胡散臭い。

ここで…一つとある伝承が頭を過る。

1062年(庚平5年)年、八幡太郎義家が奥州東征に向かった『前九年の役』の折、兵士の多くが疫病にかかって苦しんでいたという。義家は、日頃信仰していた伊豆山権現にて戦勝祈願をし、伊豆の『豆』に因み、豆食を断つ願掛けとした。奇しくも、その後めでたく戦勝を遂げ凱旋をする。

その時に義家は、伊豆山神社の神様を山木の地に勧請して、八巻神社を創建した。もともと山木という地名も、八幡太郎に因む『八巻(やまき)』で、伝承を信じて豆食を断つ家庭が多かったそうだ。すぐ隣、つくば市大穂町山木地の『伊豆権現』にも似た伝承があったという(グーグルマップでは確認取れず)。因みに、茨城県つくば市島名には『伊豆山神社』という石祠があり、御祭神や由緒は不明。この地域一帯が熱海伊豆山と強い関わりがあったのかもしれない。

◯『八巻神社』(茨城県つくば市山木)

〜祭神〜

  • 天忍穂耳命

〜配祀〜

  • 大山祇命
  • 高皇産霊命
  • 神皇産霊命
  • 別雷命
  • 菅原道真
  • 日本武尊

※茨城県神社誌による。現在の静岡県熱海市伊豆山神社と同じく、アメノオシホミミが主祭神。因みに静岡県伊東市内の『松原八幡神社』の由緒によると、伊豆国『雷電・ホムスビ信仰』の勧請元は、相模国大山阿夫利神社と言われているので、オオヤマツミと別雷命(寒川毘女・三嶋神・カモサワヒメのこと)が祀られている理由も頷ける。ただ、本来であればやはり伊豆大神イワナガヒメだったのかな?と思うのだが…。

 

当ブログでは伊豆の重要性を再三説明してきた訳だが、つまり伊豆』あるいは『豆州』の『豆』なのではないかと…。少なくとも京都の人々は東国にまで来て、そのような脳内変換が出来ていたことになる。さらに吉田家は、伊豆国卜部氏でもある。いろいろと…繋がってしまうのだが、真相は不明。 

伊豆山とはなんなのか?。日金山に埋葬されたイワナガヒメと家族の大冒険。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈レイラインの美学⑮〉最澄と空海と和気清麻呂、八幡神を巡る偉人たちのレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

宮下氏族吉田氏と吉田神道の接点を探る。

宮下氏族研究家・加茂喜三著『日本の神朝時代』P235・P250によると、静岡県沼津市下香貫宮脇にある『楊原神社』には、ニニギ『外寇親征の役』の折に、オオヤマツミファミリーと深く関係した伝承が残されているという。

宮下文書版『外寇親征の役』を簡単におさらいすると。神代ニニギの代、大陸からの襲撃により壱岐・対馬が戦場となり、ニニギはコノハナサクヤヒメを連れ南島(四国)へ出陣した。コノハナサクヤヒメはまだ十代少女神だったようで、心配した両親オオヤマツミとカモサワヒメが後を追ってきたという。しかし、出港したこの伊須(伊豆)にて、カモサワヒメ妃が三島で病死してしまう。残されたオオヤマツミは、泣く泣く、単身伊予(愛媛)へと出港した…。そしてこの楊原神社には、氏曰く『大山祇命が援軍を率いて遠征したとき船出した古跡』と伝えられ、現在もオオヤマツミ・カモサワヒメ・コノハナサクヤヒメ三柱の木像が残されているという。

※但し、この楊原伝承の記述は宮下文書三輪本現代訳にも岩間本にもないので注意。ネットでも見つけることはできなかった。



◯『楊原神社』(静岡県沼津市下香貫宮脇)

〜主祭神〜

  • 大山祇命 

〜配祀神〜

  • 石長姫命
  • 木花開耶姫命 

※式内社(名神大社)、かつては大宮大明神・香貫大明神・松彦大明神とも三嶋明神とも称された。三島市三島大社境内社扱いの同名神社の『楊原神社』は、沼津本社の遙拝所とも呼ばれていた。後北条氏と武田氏の戦火で焼失、1590年(天正十八年)現在地へと遷座再建される。かつては500メートル北東の『香貫山』に鎮座していたとのことで、縄文期の海抜を考えると孤島であった可能性あり。

 

〜楊原神社・境内社〜

  • 吉田神社

安政5年(1858年)、疫病・コレラが大流行する。その退散を願った山本七郎右衛門ら村人の要請で、京都の吉田神社から勧請された。その前年1855年8月には村数カ所にて落雷が発生しており、10月には東都大震災、翌年8月には強風により稲作の大打撃となり、最終的にコレラの大流行に至った。当初、下香貫・掃除ヶ峰に鎮座していたが、明治28年に現在地である楊原境内に遷座している。

f:id:sekihotu:20190609164109j:plain

f:id:sekihotu:20220205145756j:plain

楊原神社・境内『吉田神社』(静岡県沼津市下香貫)

 

しかし、なんでこの東国伊豆にまで『吉田神社』を勧請してきたのか?。

歴史学者・高橋敏氏によると。下香貫村に伝わる信憑性の高い記録書『吉田太元宮勧請の記』に着目している。当時コレラが流行すると、一部の発起人の呼びかけに応じ郷中一同の悲願として、疫病退散が求められていたという。吉田神社『吉田さま』の勧請には、祈祷料(七両二分)・鎮札の儀礼・宮の造営・旅費など多額の予算が必要とされていた。当地域的であれば、疫病に関しては予算的にも秩父・三峰神社を勧請するのが妥当であったようだが。この地域には、何故か西国の吉田神社を頼る傾向があり、かなりの無理をして吉田神社を勧請したという。

同時代、駿州駿東部・深良村(現在の静岡県裾野町)でも、高額な予算で吉田神社を勧請しているという。こちらは村民らが東海道中でのコレラ感染を恐れて、飛脚便により代参代行させたという。その後は同集落内にあった上丹の『大神宮』?と『深良神社』(静岡県裾野市深良)にも分置された。高橋敏氏によると、コレラと吉田神社分布との相関は認められないとのこと。ただ、吉田神道側が東国進出を狙っており、関係者を通じ勧請の強い働きかけがあったのではないか?とも論じている。

これはあくまで個人的見解だが…、やはりこの地域には、古来より地元の富士朝三嶋神(カモサワヒメ)への恐怖が潜在的にあったのではないか?とおもうのだ。この周辺には雷のような原因不明の『地鳴り』が頻繁あり、足柄峠にはヤマトタケルを先導した雷神伝承があり。私自身の経験として、富士山をはじめとする大自然への脅威が日常的に体感できる地域でもあるのだ。


以下、ついでに個人的な妄想が続くが。。。

…江戸時代末期といえば、宮下文書は1668年(寛文8年)頃から宮下家の屋根裏にて、封印されていたハズだ。なのに吉田神道では、このオオヤマツミにとっての重要な土地を、宮下文書見ずして把握出来ていた人がいた可能性がでてきた。

彼らが、単に新しい神道をでっち上げて歴史を修正するのならば、このようなカモサワヒメの史跡を辿るような祭祀は必要ないであろう。富士山御祖霊を鎮魂する為には、オリジナルを熟知しなければならず、さもなくば歴史改竄も封印もできないのだ…。かつての10代崇神天皇〜11代垂仁天皇も、富士朝信仰に精通し、富士古文書を漢訳した秦氏たちを利用して、新しい神道を作ろうとしていた節がある。富士山を封じ込めるにはそれなりの富士朝知識人を準備していて当たり前なのかもしれない。

f:id:sekihotu:20220205151257j:plain

三嶋大社摂社『伊豆三宮・楊原神社』(静岡県三島市北田町)
下香貫の楊原神社の遥拝所説あり。



結局、『節分の豆まき』とは何だったのだろうか?。

現代日本人にも馴染みの年間催事というのが、実はよく判っていないことがバレはじめてきたのではないか…?。

宮下文書における崇神時代の出来事…。当初10代崇神天皇は、麻呂山アマテラスと三種神器『三品の大御宝』レプリカを帝都に持ち出し、強権的で富士朝神道を無視する傾向にあった。しかしその結果、天災や人災が続発し、毎年恒例の富士朝参拝も復活させている。奇しくも、この時代に太神宮宮守司長に就任していたのが、吉田彦命であった。ただ宮下文書歴代大宮司(孝霊天皇任命大宮司の項)のリストに記載がないのはどういうことなのだろうか…?、謎が多い人物だ。

 

紀元前93年3月3日。高天原麻呂山から大和笠縫へ、アマテラスを勧請するため、皇子豊城命と豊耜入媛命らが入麓。富士朝を欺き、三品の大御宝を拝受したのが3月3日であった。これを西国に持ち込み、極秘裏にレプリカを作らせたという。その際、大和国への道中を、吉田彦命・宮守一同が警護していたという。

紀元前92年前後?5月5日。崇神天皇の勅命により、毎年5月5日は高天原太神宮にて大祭を行い、天皇皇后も臨席することとなる。これにより疫病飢餓が国中で鎮まったとのこと。全国で大国魂神祭を毎日祈願させたのもこの崇神時代であり、富士山高千穂峰レイライン上の武蔵総社大國魂神社『くらやみ祭り』も5月5日である。

※このあたりはまた別記事で纏めたい。

3月3日と5月5日、これも偶然なのかもしれないが…、日本人にはなじみ深い祭事の日だ。興味深いところ。

私達は対象を見ずして、勝手にそれを鬼だと決めつけ、正体不明のお祭りを繰り返してきた。もしかしたらそれは鬼ではなく、私たちの御祖霊、私たちのずっーと祖先のおじいちゃんおばあちゃんの可能性だってあるのだ…。これも歴代権力者たちの真相改竄の術中に、みごと嵌められていたのかもしれない。御祖霊さまが泣いている。

 

 

~近況報告~

テレビはここ6~7年程全く見てなく、んhkにBS受信料まで払うのがホント馬鹿らしいので、ホント捨てようかと思っていたのだが...。大河ドラマの三浦氏・和田氏・伊東氏・梶原氏・山内首藤氏が面白そうなので視聴することにした。景時の讒言がどう描かれるのか楽しみだ(笑)。武藤氏・小野寺氏は登場しないのだろうか?。

俗っぽいこといってゴメンナサイ(´(ェ)`)

今月はちょっと私用だらけで忙しいので、ブログは休みがちになるかもしれません。

m(__)m

 

 

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com

www.sekihotu.com