2022,6,19
ワッショイ!ワッショイ!└(゚∀゚└) (┘゚∀゚)┘
誠に勝手ながら、夏至日は『夏至レイライン巡り』を推奨しております。御利益の程は不明ながら、少なくともこのブログの原点…、さらに素人オッサンが3年目にして未だ続けられているのは本当にありがたい事かと。。。ただ今年の夏至21日は平日なので、行ける人は少ないのかも...。
※去年は、一年に1回くらいイラストをチマチマ書いていこうと思ったのですが…。そんなヒマもなく、あっという間に一年が経ちました。上イラストは、某所の巫女アルバイトの『小野さん』です。
(´(ェ)`)
〜武蔵小野大神、三所宮巡り〜
①武蔵一宮・小野神社(東京都多摩市一ノ宮)
②武蔵総社・大國魂神社(東京都府中市宮町)
③人見稲荷神社(東京都府中市若松町)
※富士山~九州高千穂峰から夏至の日の出に近い方向へのレイライン。
~目次~
夏至の日到来、『多摩』の歴史と富士山高千穂峰『夏至』レイラインまとめ。 - セキホツ熊の謎を追え!
<人見稲荷神社>瀬織津姫を三陣並べて、元寇『神風』を二度も呼んでしまった少弐氏おじいちゃんのお話。 - セキホツ熊の謎を追え!
結局、このレイラインの意味とは?
もし仮に、宮下文書の述べていることがホントで、富士山と高千穂峰に王朝があったとしたら…。
後世の歴代権力者たちは、御祖霊を恐れていた節があり、全く『無きもの』には出来なかったのではないだろうか?。富士朝とウガヤ朝の歴代神皇を祀り、ひっそり纏めて弔い、鎮魂祭祀されるような場所が、今もこの日本のどこかに存在しているのではないか…?。
当ブログでは、とくにこの夏至レイライン上の武蔵総社、『大國魂神社』祭祀に注目してきたわけだが...。例えば、5月5日阿祖山太神宮の例大祭日と重なり、徳川幕府がその祭祀を深夜執り行なわせた『くらやみ祭り』の意図にも合点がいく。徳川幕府曰く、『御祭神は絶対に見てはならない』と…。また、宮下文書におけるウガヤフキアエズ朝・歴代51妃の諡、『多摩夜里毘女尊』『多摩(たま)』の真意なのではないだろうかと…。そして当社名物、宮下文書版クニサツチが神獣と定めた『カラス』の団扇、この神社には、毎年『夏至祭』があるのも面白い。
これらはあくまで素人オッサンが勝手に妄想しているに過ぎないのだが、しかし検証の必要はありそうだ。本日はよい機会なので、その根拠を集めてみた…。
(´(ェ)`)
鶴亀伝説と柄杓奉納。
根拠の一つが、大國魂神社境内『宮之咩神社』ではないか?と。
この『宮之咩神社』は当社創建の111年頃から存在しており、起源は不明なれど現在までヒシャク奉納がされている。このヒシャク奉納だが...、宮下文書では鶴亀伝承と深い関わりがありそうだ。一般的な鶴亀伝承は、紀元前2世紀頃『淮南子』の説林訓に記載されている通り、もともとは中国の長寿や慶事のシンボルとされるので注意。
〜富士高天原・菅原に祀られた寒川大神〜
- 国佐都知尊(諱・農佐比古)
- 国佐比女尊(諱・白竜清比女)
※上は岩間本表記
※三輪本現代訳『神皇紀』表記では、国狭槌尊と白清龍比女尊となる。白竜清と白清龍どちらが正しいのだろうか…。
宮下文書岩間本曰く。
この老夫婦は、高天原宮守川上流の大松の下、またはその奥の小池で、鶴と亀と遊ぶことを無上の楽しみにしていたという。白の大鳥は『都留(つる)』と鳴くのでツルと呼び、赤の大蟲は『家明(かめ)』と鳴くのでカメと呼び、その鳴き声を楽しみに柄杓で餌付けをしていた。ある日、鶴と亀が餌を競って、交互に『つる』『かめ』共鳴連呼するのを見て老夫婦共は大はしゃぎ、思わず柄杓を抛げ『万佐・万佐・万佐!』と三唱したという。
夫妻は、これが子孫繁栄の吉兆と、抛げた杓を戴きて言った。
『吾が子孫天つ日嗣の大御位に即きまさむには、必ずこの杓を身に副え持つべし』
~岩間尹『開闢神代歴代記』26ページ引用~
因みに、アマテラスがスサノオ(はとこ)に求婚を迫られ、岩屈に隠れた『岩戸事件』の折にも、事件解決の際にこの『万佐』コールが行われている。後世、おそらくこれが『万歳』三唱の慣わしになったのであろう。このときアメノウズメもその場におり、アマテラスの無事を祝福して、青葉の木の枝をもって舞った。また『都留』は、現在の山梨県富士吉田市周辺の地名として今も残っている。興味深いことに、クニサツチの兄・クニトコタチの拠点であった『桑田宮』には、京都府亀岡市という地名が残っているわけだ。
そして、アマテラスが創建した阿祖山太神宮は、御祖代山の麓に位置しており、これが現在山名の『杓子山』の語源とみられる。即ち、御祖代≒『杓子』の意味合いなのだろう。
『諏訪大社』正体解明?。追放されたのはタケミナカタではない、神武天皇御子・手研耳命であった。 - セキホツ熊の謎を追え!
クニサツチの柄杓を、継ごうとしていた男がいた。
前記事どおり。鎌倉時代、源頼朝により富士朝阿祖山太神宮は再興されたが、権力者をいつも悩ませるのが継承者問題なわけだ。頼朝は、北条政子が懐妊の折に、鎌倉の鶴岡八幡初め相模国27の神社仏閣に安産の祈願をさせた。 また嫡男・頼家の生まれる際、政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮の参道若宮大路を造営させたという。相模国外で祀られた神社もいくつかあるようで、その中の一社が大國魂神社境内社『宮之咩神社』であった。
『吾妻鏡』曰く、1182年(寿永元年)8月11日、大國魂神社にて政子の安産祈願を行い、翌12日に頼家が誕生している。つまり政子が産気づき、出産日を当て込んでの特別祈願となるわけだ。以降、大國魂神社宮之咩神社では、毎年7月12日に安産特別祈願祭が行われている。この時、頼朝がヒシャクを奉納させたかは不明。
◯大國魂神社境内・宮之咩神社
〜御祭神〜
・天鈿女命
※創建は大國魂神社同様、景行年間。
注目すべきは、この安産祈願に使節として派遣されたのが、宮下氏族葛西三郎清重であることだ。宮下文書版葛西氏は、日高国造・大山守皇子第十王子益田日高彦の子孫にあたる。これが戦国時代小野寺氏族が婿入りした黒澤氏の祖ならば、私の推定ご先祖さまの可能性もあるのだが…(諸説あり)。
通説における葛西氏族は、秩父平氏で畠山氏らと同族になので注意。
ヒシャク奉納は全国的に見られるが、富士山再興を果たした源頼朝の由緒がチラつくのは面白い。宮下氏族と交流が深い頼朝ならば、そのヒシャクの意もわかっていただろう。源頼朝と八重姫の逢引き伝承のある、『音無神社』(静岡県伊東市音無町)では、ヒシャクに穴を空けて奉納する慣わしがあるという。大國魂神社宮乃咩神社で奉納されているヒシャクには、どれも底がない。厳密に言えば…もはや柄杓とは呼べない代物なのだが(苦笑)。これらは、『水通しのよい出産』を願う慣わしで、つまり羊水で産道をなめらかにする願掛けが込められているという。
しかし残念ながら…頼朝将軍家は3代実朝で潰え、清和源氏棟梁の血筋も断絶した。子孫繁栄は達成できなかった...。
大國魂神社の水神は、なんで賀茂神???。
大國魂神社が歴代皇祖を祀るかもしれない2つ目の理由は、賀茂神の存在だ。
通説によると賀茂神は賀茂氏族の祖とされる。しかし宮下文書の系図的には、皇祖神(ウガヤフキアエズや神武天皇の祖)の母方遺伝子なのは明白で、一般豪族だけに括られるべき存在ではない。つまり欠史にされた時代の母方皇祖神たちを一括りにして、架空氏族『賀茂氏』の祖と称している可能性あり。宮下文書では賀茂氏は登場せず、存在自体が非常に怪しい氏族となる…。この辺りは別記事にて纏めたい…。
簡単に言えば、別雷命は富士朝時代の皇家女系で、玉依姫命(多摩夜里毘女尊)はウガヤフキアエズ朝時代の皇家女系となる。
〜賀茂三神の正体?〜
▲初代加茂澤毘女命(別雷命)皇祖外祖父オオヤマツミの妃、コノハナサクヤ母。
▲全51代多摩夜里毘女尊(ウガヤ妃51柱)ウガヤ時代の神武女系祖。
※賀茂建角身(宮下文書記載なし、不明)。
〜宮下文書時代区分〜
- 火高見神の世、日本以来の火神の時代。
- 七神七世、四季島統治時代クニトコタチ・クニサツチ
- 豊葦原瑞穂国5代、富士朝時代アマテラス〜ヒコホホデミ4代
- 宇家潤不二合須世、ウガヤフキアエズ全51代
- 神皇時代、神武天皇以後〜現在
そして今回注目したいのが、大國魂神社における水神が賀茂神である事だ。
もともとは賀茂三神は、大國魂神社・境外末社『瀧神社』(府中市清水が丘)に祀られていた。瀧神社境内由緒によると、最低でも600年前には存在しており、5月5日『くらやみ祭』の神事には、奉仕者や神馬が清められる祓所であった。ロケーション的には、府中〜立川段丘から富士山を南西に望める湧水地帯で、遺跡も大い地帯。現在の『清水ヶ丘』の地名もここから由来している。しかし近年は宅地造成され、段丘から富士山までの眺望は失われてしまった。レイライン上の隣町、聖蹟桜ヶ丘駅で高層ビルが建てられた影響もあり、府中市から富士山を見通せる場所は減少してきている。さらには当地の湧水も枯渇して、『水神』の役割を奪われてしまっているようにも見受けられる。
◯境外末社『瀧神社』(府中市清水ヶ丘)
〜御祭神〜
- 加茂別雷命
- 玉依姫命
- 加茂建角身命
一方で、大國魂神社境内『水神社』にはミズハノメが一柱祀られていたが、昭和58年、境外社『瀧神社』が境内社『水神社』に分霊合祀された。さらに平成に入り、神社の奉賛会記念事業の一貫として深井戸を掘り、地下水を汲み上げて竜頭口を設置した。この合祀の理由は不明であるが、この瀧神社の湧水枯渇問題も配慮されていたのかもしれない(妄想)。
◯境内社『水神社』(府中市宮町)
〜御祭神〜
- 水波能売命
- 加茂別雷命
- 玉依姫命
- 加茂建角身命
※昭和58年に、瀧神社→水神社に御霊分け。
これらが神社側にとって意図されていたとも思えないのだが…、結果として、富士朝とウガヤフキアエズ朝の象徴が大國魂神社境内に祀られる運びとなる。ご存知のように山城国では賀茂明神は鎮守であり、全国的には水神的・雨乞い的な祭祀要素として知られている。しかし、この大國魂神社では賀茂神をまるで祓戸神のごとく祀っており、一般的に見てもかなり特殊なケースだろう。ただ前述のように、賀茂神が皇家母方遺伝子であれば、祓戸神同様、強力な水神・女神要素であり、このような点からも富士朝とウガヤフキアエズ朝からの影響を得ていると思えてしまうのだ。
また大國魂神社境内『水神社』の隣には、オオヤマクイを祀る『松尾社』がある。つまり本殿を時計回りに回ると、『水神社』の別雷命→『松尾社』のオオヤマクイと、山城国『火雷の仕組み』を自動的に巡拝できる仕組みとなっている。
そもそも瀧神社と大國魂神社の間には、御祭神不明の大國魂神社関係社『日吉神社』があり。もし仮に、この御祭り神がオオヤマクイであれば、ここでも『瀧神社』別神命カモサワヒメとの火雷のコンビネーションが成立する。この大國魂神社は天台宗比叡山や、富士朝の影響力が強かった神社だったのかもしれない。
これも偶然なのか、神社側の意図なのかは不明なのだが…。私は神社マニアになる以前から、毎年毎年この神社に初詣をしてきたわけで…、知らず識らずのうちに火雷さまに触れていたわけだ。そう考えると…偶然というのは恐ろしいことだ。
(´(ェ)`)
大國魂神社の東西軸と南北軸。
世間一般的に、神社というのは『天子南面す』と言われるように、南方か東方を向くことが多いのだという。
しかし1051年(永承6年)、奥州征伐(前九年の役)の折、源頼義が南向きであった大國魂神社社殿を北向きに建て直した。通説によると、これは朝廷の権威を蝦夷に示すもので、現在の北へ伸びる参道『馬場大門けやき並木』も源頼義・義家が苗木を寄進したという(諸説あり)。
では、素朴な疑問として北に一体何があるのか?、レイライン的に調べてみた。
~大國魂神社南北レイライン~
- 江島神社奥津宮
- 鵠沼皇大神宮(別名・烏森神社)
- 地神社
- 今田・鯖神社
- 七ッ木神社(旧名・鯖明神社、渋谷氏崇敬)
- 大國魂神社
- 喜多院(円仁・天海由来)
- 川越氷川神社(太田道灌由来)
- 埼玉古墳群
- 前玉神社(神代の関東中心地?)
- 樺崎八幡宮(清和源氏足利氏由来)
- 日本列島中心碑
- 蓬莱山(豊城入彦命・勝道上人由来)
- 蓬莱神社(厳島神社・藤原秀郷由来)
- 日光二荒山神社奥宮
- 日光男体山
なんと、前記事でも紹介した日本列島中心の地を指しており、『将門中心点レイライン』とクロスする。
さらに北には男体山があり、徳川家康が大國魂神社を特別視した理由もよくわかってくる。徳川家康は『遺骨を久能山、御魂を日光に祀れ、神として祀られ八州の鎮守となろう』との旨を遺言していたという。当初『久能山東照宮』(静岡県静岡市駿河区根古屋)に祀られていたが、大國魂神社に1泊滞在して祭祀され、全19日かけて『日光東照宮』へと御移された。2代将軍秀忠により、大國魂神社境内社『東照宮』が創建された。
※地図はクラフトマップ使用。